バンド社会:中国に到達したホモ・サピエンス

現代の中国社会は、数千年の歴史の中で築かれた複雑な文化、思想、制度に支えられています。しかし、その根源をたどると、旧石器時代に存在した小さな移動集団「バンド」に行き着きます。彼らは、現代の中国人の直接的な祖先集団の一つであり、その文化や遺伝的特徴は、私たちの身体と心の中に今も息づいています。

今回は、ホモ・サピエンスがどのようにして中国に到達し、独自のバンド社会と文化を形成していったのかを、最新の科学的知見に基づいて探っていきます。

中国に入ってきた人類

ホモ・サピエンスが中国に到達するはるか昔から、この広大な土地にはすでに様々な人類が暮らしていました。彼らは後のホモ・サピエンスとは異なる進化の道をたどった「原人」や、ホモ・サピエンスの同時代に存在した「旧人」と呼ばれる人々です。

  • ホモ・エレクトス: 約170万年前の元謀原人や、約78万年前の北京原人などが有名です。彼らは石器を作り、火を使いこなし、厳しい自然環境に適応していました。しかし、彼らの脳はホモ・サピエンスに比べて小さく、抽象的な思考や複雑な言語を持つには至らなかったと考えられています。
  • デニソワ人など: 約28万年前の金牛山人や約13万年前の馬壩人などが発見されています。彼らは北京原人よりも脳が発達し、より洗練された石器を使っていましたが、ホモ・サピエンスが世界に拡散するにつれて、その存在は次第に薄れていきました。これらの人類は、ネアンデルタール人とは異なる、アジア独自の絶滅したヒト属(デニソワ人など)であった可能性が指摘されています。

ホモ・サピエンスの最初の伝播

ホモ・サピエンスがアフリカを出て世界へと拡散した時期については、これまで約7万年前から始まったとする説が一般的でした。しかし、中国・湖南省の福岩洞で発見された、約12万〜8万年前のホモ・サピエンスの歯の化石が、この定説を覆しました。これは、考えられていたよりもはるかに早く、人類がアフリカを出て東アジアに到達していたことを示しています。

しかし、福岩洞の人々が、現代の中国人の直接の祖先である可能性は低いと考えられています。その理由は主に2つあります。

  • 遺伝的な証拠がない:見つかったのは歯の化石のみでDNAを調べることができず、現代の中国人やアジア人との遺伝的なつながりを証明する確実な証拠が見つかっていません。
  • 現代人の祖先との歴史的なずれ:現代の非アフリカ系人類は、遺伝子分析の結果から、約6万〜7万年前にアフリカを出た集団が主な祖先であると考えられています。

このことから、福岩洞の初期のホモ・サピエンスの集団は、その後の大規模な人類の移動に飲み込まれたか、あるいは現代の人々に大きな遺伝的な影響を与えることなく絶滅したと考えられています。

本格的なホモ・サピエンスの伝播

グレートジャーニーと現代の中国人の祖先の誕生

現代の中国人の直接の祖先は、約6万〜7万年前にアフリカを出発した、ホモ・サピエンスの集団だと考えられています。彼らは、より洗練された道具、火の利用、そして抽象的な思考を可能にする高度な言語能力を持っていました。

彼らが中国に到達したのは、約4万年前以降と推定されています。北京郊外の田園洞で発見された約4万年前の人骨のDNAは、現代のアジア人やネイティブアメリカンと共通の祖先を持つことが示されています。この発見は、田園洞人が、現代のアジア人やネイティブアメリカンの祖先と同じ系統に属していたことを示唆しています。つまり、約4万年前以降に東アジアに到達したグループが、その後の長い年月を経て、現代の中国人を含む多様なアジア人の集団を形成していったと考えられています。

ヒマラヤ山脈の南と北のルートと他のホモ属との交雑

このホモ・サピエンスの集団は、中国に入る際に、巨大なヒマラヤ山脈を迂回するように、主に南と北の二つのルートをたどったと考えられています。

  • 南ルート(沿岸ルート): アラビア半島からインド、東南アジアを経由し、中国南部へと至るルートです。このルートをたどった人々は、東南アジアに広く分布していたデニソワ人と交雑しました。現代の東アジア人のDNAには、このデニソワ人の遺伝的痕跡が、特に免疫や高地適応に関わる遺伝子として残されています。

  チベット人の高地適応はデニソワ人由来 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト

  • 北ルート(内陸ルート): 中央アジアからシベリア、そして中国北部へと至るルートです。このルートをたどった集団は、すでにネアンデルタール人との交雑を経験していました。この交雑は、ホモ・サピエンスがアフリカを出てまもない頃、西アジアで起こったとされています。その遺伝子は、肌の色や髪質、免疫機能に関わるものとして、アフリカ人以外のすべての人類に受け継がれています。

南北で遺伝的に異なる中国人の祖先

南と北のルートから中国に入ったホモ・サピエンスの集団は、それぞれ異なる環境をたどり、異なる古代人類との交雑を経験したため、遺伝的にわずかな違いを持っていました。しかし、彼らは中国国内で次第に混ざり合い、現代の中国人の祖先となる集団を形成していきました。

旧石器文化の誕生

異なる石器の製作方法とその背景

南北のホモ・サピエンス集団がそれぞれ異なる歴史をたどったことは、石器文化にも明確な違いとして現れていました。中国の旧石器文化は、秦嶺・淮河線を境に、二つの異なる伝統が見られます。

  • 北方地域: 寒冷な気候と広大な草原に適応するため、高度な技術を要する細石刃文化が発達しました。この細石刃は、ナイフのように鋭い刃を持つ小型の石器で、槍の穂先やナイフの刃として使われ、大型動物の効率的な狩猟を可能にしました。この技術は、シベリアや中央アジアを経由して伝わったと考えられています。
  • 南方地域: 温暖で湿潤な気候と豊かな森林に適応するため、礫器文化が主流でした。礫器は、丸い石を打ち欠いて作った大型の石器で、植物の根を掘り起こしたり、木を加工したりするのに適しています。この文化は、東南アジアから伝わったと考えられており、植物採集や小動物の狩猟が中心の生活様式を反映しています。

旧石器時代の信仰

バンド社会の人々は、単に道具を作るだけでなく、死や生命、そして自然に対する観念的な思考を持っていました。

  • 周口店上洞人の埋葬: 北京郊外の周口店上洞遺跡では、約2万7000年前の埋葬が発見されました。人骨の周囲には赤鉄鉱(ベンガラ)が撒かれており、これは死後の世界や魂の再生を願う宗教的な行為だったと考えられています。
  • 装飾品: また、石や骨で作られたビーズやペンダントといった装飾品も発見されており、これらは単なる身だしなみだけでなく、呪術的な意味や集団内での身分を示す象徴であった可能性があります。

これらの遺物は、中国のバンド社会の人々が、現代につながる「不安」と「コントロール欲求」を抱き、それを乗り越えるために精神的な営みを始めたことを示しています。彼らは、優れた個人への信頼、自然への畏敬、そして超自然的な存在との対話を通じて、不確実な世界に「意味」を与えようとしました。

ホモ・サピエンスが中国の広大な大地に足を踏み入れ、多様な文化と遺伝子を受け継ぎながら独自のバンド社会を築いていった過程は、現代の中国人のアイデンティティを形成する上で、極めて重要な基盤となっています。

参考文献

篠田謙一「人類の起源」中公新書(2022)

海部陽介「日本人はどこから来たのか?」文芸春秋(2016)

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