前回は、古代中国で文字と貨幣が誕生し、それらが社会を統合する基盤を築いていく過程を見てきました。紀元前2000年頃の気候変動という根源的な不安を乗り越え、邑(ゆう)という都市国家が形成され、やがて夏、殷、周といった王朝へと発展していきました。しかし、この秩序も永遠ではありませんでした。今回は、その先の春秋戦国時代の混沌から、いかにして「中華帝国」という、二千年以上にわたる壮大な統治モデルが誕生したのか深く掘り下げていきます。
不安の時代―社会の広域化と思想の乱立
周王朝の時代、社会の中心は中原と呼ばれる黄河中流域にありました。周王室は、天命を受けた最高の権威として、祖先神への祭祀を司っていました。この権威の象徴として、王の血統が天に由来することが示されました。
この社会は、封建制と宗法制度によって成り立っていました。王は王族や功臣に土地を与えて諸侯とし、諸侯が王に忠誠を誓うことで、広大な領域を間接的に支配しました。この秩序の根幹には血縁関係があり、家父長的な血族集団が社会の基盤となっていました。
しかし、この血縁に基づく秩序は、時代の流れとともに揺らぎ始めます。特に紀元前770年の周の東遷以降、周王室の権威は決定的に衰退し、諸侯は自立を強めました。
加えて、鉄器の普及が農業生産力を飛躍的に向上させ、経済や文化が大きく発展しました。この変化は、従来の都市国家の枠組みや血縁に縛られた社会秩序を機能不全に陥らせ、新たな社会秩序の構築が求められるようになりました。
このような秩序の混乱と、それを収める新たな思想や権力の模索が、終わりの見えない戦乱の時代、春秋戦国時代へと人々を導く引き金となったのです。
この激動の時代、人々は社会の混沌という不安を克服しようと、様々な思想を生み出しました。これが、諸子百家と呼ばれる思想家たちの登場です。儒家、道家、墨家、法家など、多くの思想が乱立し、それぞれの理想を掲げて競いました。
秦の始皇帝が描いた「中華帝国」のグランドデザイン
この混沌に終止符を打ったのが、戦国七雄の一つ、秦でした。紀元前221年、秦の王、嬴政(えいせい)はすべての敵を打ち破り、史上初めて中国を統一します。
統一後の秦は、周よりも広大で、より多くの民族からなっていました。さらに、春秋戦国時代という実力主義の時代が終わったばかりなので、都市国家のような緩い方法(神権政治や血縁を基礎とした封建制)で統治することも困難でした。
そこで嬴政は「始皇帝」と名乗り、周の封建制とは根本的に異なる、新しい統治モデルを設計しました。それが、後の中国を二千年以上にわたって支配する「中華帝国」の原型となる中央集権国家です。
- 権威の変革: 周王室の天命に代わり、始皇帝は自らを天と直接繋がる絶対的な権威としました。その権威は、血縁だけでなく、法と力によって裏付けられました。
- 権力の集中: 周王族や諸侯に分与されていた権力は、すべて皇帝一人の手に集約されました。
- 民衆の再定義: 都市国家の構成員から、皇帝の支配を受ける民衆として再定義されました。すべての人間は、皇帝に服従する存在となったのです。
この壮大な設計を支えた具体的な施策を見ていきましょう。
- 皇帝制度の創設: 嬴政は、自らの地位を従来の「王」ではなく、「皇帝」と名付けました。これは、古代の伝説的な君主である三皇五帝をも上回る存在であることを意味し、その絶大な権力を象徴しました。
- 中央集権体制の構築: 皇帝の権力を地方の隅々まで行き渡らせるため、官僚と常備軍という二つの柱を確立しました。官僚は皇帝に忠実な手足として行政を担い、常備軍は反乱を防ぐとともに皇帝の権力の源泉となりました。
- 郡県制の導入: 広大な領土を効率的に支配するため、郡県制が導入されました。軍事と行政を司る太守が統治する郡と、その下で行政実務を担う県令が統治する県が設けられ、中央の意向が国内に行き渡る仕組みが作られました。「県」には「釣り下がる」や「連なる」という意味があり、これは県が中央から独立せず、中央政府の統治下にぶら下がっていることを意味しています。
- 経済統一と税収の確保: 帝国経済を支えるため、商取引の活性化が図られました。各県に公設市場が設けられ、中央と各県を結ぶ道路網が整備されました。さらに、車軌、度量衡、貨幣が統一され、帝国全体で円滑な経済活動が可能になりました。これらの経済活動から得られる税収は、宮廷の増築維持や、対外遠征、万里の長城建設といった大規模事業に充てられました。
- 思想の統一と弾圧: 始皇帝は、多様な思想の乱立を危険視し、法家の思想による法治主義を徹底しました。全国民を厳格な法のもとで統治する一方で、体制に批判的な意見や思想を徹底的に弾圧しました。これが、有名な「焚書坑儒」です。焚書では、秦の政権を批判する思想や、他国の歴史書が燃やされました。また、坑儒では、始皇帝に反発した一部の儒学者などが生き埋めにされました。
なお、郡県制を通じて皇帝の権力は地方まで及ぶことになりますが、県の下に位置する郷・亭・里といった農村地域は、税や兵役といった義務の履行を求められる以外は、基本的にそれぞれの共同体や宗族の自治に任されていました。
始皇帝が築いた強固な中央集権体制は、わずか15年で崩壊しました。その強権的な統治と、万里の長城建設に代表される民衆への過酷な負担が、人々の不満を爆発させたのです。
漢王朝によるグランドデザインの確立
秦が滅んだ後、漢王朝が中国を再統一しました。漢の皇帝たちは、秦の失敗から学び、その統治モデルをより洗練させました。
- 儒教の重用: 前漢の武帝の時代に、儒家の董仲舒の進言を受け入れ、儒教が官学として採用されました。これにより儒教は次第に統治の理念として定着し、国教に近い役割を果たすようになります。
- 易姓革命思想の活用: 漢代に儒教が重視されたことで、戦国時代の思想家である孟子(孔子の弟子)が唱えた易姓革命の思想が広く浸透しました。この思想は、皇帝は天命を受けた存在であり、徳を失えばその天命を失うというもので、王朝交代を理論的に正当化する重要な考え方となりました。これにより、支配者と臣民の関係に一定の倫理観がもたらされました。
- 中華帝国の拡大: 漢の武帝の時代には、積極的な対外遠征が行われ、中華帝国の版図はさらに拡大しました。その支配領域は、東は朝鮮半島(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)から南はベトナム北部、さらに、西は中央アジア(シルクロードの主要ルートにあたる河西回廊)に及びました。
中華帝国の統治理念「大一統」
秦と漢が築き上げた統治モデルは、後世の王朝に受け継がれ、中華帝国の根幹をなす理念となりました。この理念は「大一統(だいいっとう)」と呼ばれ、中国の統治思想の核となります。
大一統とは、「広大な中国の国土と人民を、ただ一人の皇帝が統一的に支配し、全宇宙を秩序づける」という思想を指します。 始皇帝の中央集権体制と漢代に確立された儒教という統治理念が組み合わさることで、単なる武力による支配を超えた、精神的・文化的な統一も実現されました。王朝は変わっても、この「大一統」の思想は中国の歴代王朝の政治目標となり、中華世界を維持する上での普遍的な原理となったのです。
まとめ:中華帝国の誕生と二千年の継続
こうして、秦が築いた中央集権の骨格に、漢が儒教という血肉を与えたことで、中華帝国のモデルは誕生しました。このモデルは、天命という抽象的な権威の下、皇帝が絶対的な権力を持ち、官僚と常備軍を通じて、天下の民衆を直接支配するというものです。そして、王朝が衰退し民衆が苦しむと、易姓革命の思想によって新たな有徳者が登場し、王朝交代が繰り返されるというサイクルが定着しました。
この皇帝を中心とする中華秩序は、基本的には清王朝の末期まで、二千年以上にわたって中国を動かす理念となりました。王朝は変われど、その根幹をなす統治モデルは不変でした。この壮大な歴史は、まさに秦と漢の二つの王朝が築き上げた壮大な設計の賜物と言えるでしょう。
次回は、三国時代以降、この中華帝国による統治モデルがどのように進化していったのか見ていきます。お楽しみに!
参考文献
岡田英弘「読む年表中国の歴史」ワック(2012)
出口治明「『全世界史』講義Ⅰ古代・中世編」新潮社(2016)
渡邉義浩「『中国』は、いかにして統一されたか」NHK出版(2024)