帝国2:分裂と再統一と中央集権国家の拡充

中国史

前回は、秦と漢という二つの王朝が、いかにして広大な「中華帝国」が築き上げたかを見てきました。強大な中央集権国家の誕生は、技術革新や社会の広域化といった変化に対する不安を克服し、人々に安定をもたらす画期的なシステムでした。しかし、この壮大なグランドデザインも、漢王朝末以降、寒冷化と異民族の流入という社会不安により再び動揺することになります。今回は、漢王朝滅亡後の大分裂の時代を経て、隋・唐王朝がどのようにして中央集権体制を再構築し、社会不安をコントロールさせ内容を充実させていったのか、探っていきます。

悲惨な時代:人口の激減と異民族の流入

後漢末の寒冷化は、内乱と飢饉という甚大な被害をもたらします。その結果、人口は漢末期の約5600万人から大幅に減少し、小説やゲームといった「三国志」で有名な三国時代には約1400万人台まで落ち込んだと推定されています。「後漢書」には、飢饉に苦しむ人々が「人相食」つまり「人が互いに食い合った」と記録されており、当時の悲惨な状況を今に伝えています。

この未曽有の人口不足を補うため、三国はそれぞれ軍事力を強化する目的で、国境の外に住む遊牧民たちを兵士として一部活用し始めました。

しかし、遊牧民の本格的な流入と定住は、三国を統一して成立した晋(西晋)の時代に進み、やがて内乱に乗じて彼らが華北で次々と国を建国・滅亡させる興亡を繰り返すようになります。これが五胡十六国時代です。(胡とは漢民族以外の民族を指す言葉であり、要するに異民族が入り混じり国を立てては滅ぼす混乱期であったことを象徴する言葉です)。一方で、晋の皇族や華北の貴族は華南へと逃れ、東晋を建国しました。

その後、華北では遊牧民の中でも特に強大な勢力であった鮮卑の拓跋氏が北魏を建国し、華南では東晋が滅んで宋が成立しました。ここから、中国の南北で短命な王朝が興亡を繰り返す南北朝時代へと突入します。

この分裂と混乱の時代は、秦漢が築いた中央集権の秩序を一時的に失わせましたが、同時に、多くの異民族文化が流入し、中国文化に新たな活力を与えることにもなりました。そして、最終的には、北魏の流れを汲む隋と唐が、およそ300年ぶりに中国を再統一するのです。

再構築された統治システム

隋や唐は、秦漢が築いた皇帝中心の中央集権国家というグランドデザインをそのまま引き継ぎました。しかし、彼らはただ模倣しただけではありません。秦漢の時代の統治システムを、より精緻で持続可能なものへとアップデートしていきました。

自作農を基盤とした公地公民の国家運営

核となったのが、自作農を国家運営の基盤に据えるという発想です。この時代の国家財政は、基本的に農民から徴収する税金で賄われていました。そのため、自作農の数を増やし、彼らの生活を安定させることが、国家の安定に直結しました。そこで隋や唐は、以下の画期的な制度を一体的に運用することで、国家運営を強固なものにしたのです。

  • 均田法: 国家が原則として全ての土地を国有地(つまり原則として土地の私有を認めない)とし、成人男子に口分田と、世襲が認められた永業田と呼ばれる田畑を分配しました。これにより、土地を失って貧困に陥る農民が減り、農民の生活が安定しました。
  • 租庸調制: 均田法で分配された田畑と、農民の人数に応じて、穀物(租)、労役の代わりに納める絹や布(庸)、特産物(調)を課しました。農民は安定した土地を得る代わりに、国家に税と労働力を提供する義務を負いました。
  • 府兵制: 均田法で土地を得た農民の中から兵役義務者を募り、彼らが平時は農業に従事し、戦時には兵士として働くという徴兵制度を確立しました。この制度により、国家は莫大な維持費のかかる常備軍を持つことなく、強大な軍事力を維持することができました。

精緻化された官僚システムと法制度

自作農を基盤とする経済・軍事システムを支えるため、隋唐は官僚制度と法制度も大幅に整備しました。

  • 科挙の導入: 隋代に導入された科挙は、身分や家柄にとらわれず、能力のある者を筆記試験で選抜し、官僚として登用する制度です。完全に家柄をなくしたわけではありませんが、能力主義の道を切り開き、皇帝に直接才能を認められた官僚を増やすことで、中央集権体制が強化されました。
  • 官僚機構の整備: 国家の行政組織も刷新されました。中央政府に三省六部という複雑で機能的なシステムが整備されました。皇帝を補佐し政策の立案、審議、実施を分担する三省と、その下で行政実務を担う六部(役所)が連携することで、広大な国家の隅々まで円滑な統治が可能となりました。
  • 法制度の整備: さらに、国家を厳格に運営するための法制度として、律令格式が整備されました。罪や罰則を定めた「律」、行政組織や制度を定めた「令」、細則や補足規定の「格」、行政の様式や手続きを定めた「式」からなり、これらの法体系によって国家の安定的な運営が支えられました。

これら隋唐の統治システムは、日本でも手本とされ、律令国家という形で導入されました。

新たな不安と帝国の衰退:土地私有と両税法の時代へ

しかし、この精緻な統治モデルも、その理想的な運用が永遠に続いたわけではありませんでした。

均田制は人口に対して国が十分な土地を確保できるときは安定的な運用ができますが、限りある土地に対して人口が増加すると制度に支障をきたします。事実、隋唐の安定した統治のもと、人口は回復し、唐の玄宗の時代には漢代の最盛期に迫る約5300万人に達しましたが、その結果、均田制の基盤となる土地が不足し始め、制度は有名無実化していきます。そして、この混乱に乗じて、貴族や有力者が広大な土地を囲い込み、荘園として私有化する動きが加速しました。

土地の公有という原則が崩れ、生活の基盤を失った自作農は税を納めることができなくなり、それに伴い、租庸調制や府兵制といった国家を支える制度も機能不全に陥ります。

安定した税収と兵力を失った唐王朝は、国家運営の方向転換を迫られます。そこで、安史の乱後の混乱期に、土地の面積や資産に応じて夏と秋の年2回に分けて課税する両税法へと税制を移行しました。兵士も、農民から徴兵するのではなく、専門の兵士を雇う募兵制へと移行しました。これにより、財政は一時的に安定しましたが、地方の節度使(軍事指揮官)が自らの管轄地で力をつけ、中央の統制が揺らぐことになります。

まとめ

このように、隋唐は秦漢のグランドデザインをより完成度の高いものへと引き継ぎましたが、その後の社会の変化に対応できず、新たな統治モデルを模索することになります。この歴史は、いかに優れた制度も、時代の流れや社会の変動に応じて常にアップデートしていく必要があることを示していると言えるでしょう。

次回は宋代以降の中央集権国家について見ていきます。お楽しみに!

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