帝国:天皇を中心とする大日本帝国

武士が権力を握った時代、天皇は政治の表舞台から遠ざかり、権威として日本を象徴する存在になりました。しかし、時代は再び大きく動きます。

欧米列強の帝国主義によって、日本は植民地化という大きな「不安」に直面しました。この不安によって、かつて権力と一体であった天皇の権威が見直され、近代国民国家を築くための中心に据えられました。この記事では、明治時代以降、天皇を中心とした国家体制がどのように形成され、人々が「臣民」として統合されていったのかを、コントロール欲求という視点から紐解いていきましょう。

未曾有の危機と「天皇」を核とした国家体制

幕末から明治時代にかけて、欧米列強による帝国主義という未曾有の脅威に直面した日本は、自国の独立と安全を確保するというコントロール欲求から、欧米流の国民国家へと移行する道を選びました。

この国民国家の構築において、かつて権力と一体であった天皇の権威が再び見直され、天皇を中心とする中央集権国家として刷新が図られました。これは、天皇の権威の下で、明治新政府という権力が、全民衆を国家という大きな枠組みの中に統合するものでした。

しかし、ここで統合された人々は、現代の国民という言葉が持つ、主権の一部を担い、国家に対し権利と義務を有する主体的な存在とは性格を異にしていました。

「臣民」と「現人神」が創る国家

臣民の誕生と家族的国家観

明治新政府が目指したのは、天皇を頂点とする強固な国家体制の確立でした。1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が発布され、同時に国号も大日本帝国と定められ、その中で人々は臣民として位置づけられました。

臣民とは、天皇に対し忠誠と服従を誓う、天皇の臣下としての国民を指します。つまり、国民自らの意思よりも国家、すなわち天皇の意思が優先されました。

さらに、天皇を国家の家長とし、臣民を天皇の赤子(せきし)として忠誠と服従を求める家族的国家観が、憲法発布の翌年である1890年(明治23年)に発布された教育勅語などの形で導入され、国家の指針として浸透していきました。

現人神としての天皇

天皇を国家の家長とする権威は明治末から昭和初期にかけて増々高められます。

西欧列強の帝国主義に続き、世界初の共産主義国家ソビエト連邦の誕生により、世界各地に共産主義思想が拡散します。共産主義は権威や権力を否定する労働者中心の共同体作りを基本的な理念としており、この思想は日本にも流入し、天皇陛下暗殺未遂事件(大逆事件)が発生する事態になります。さらに、第一次世界大戦を機に、戦争が国民を総動員する総力戦の様相を呈したため、国民を強力に動員する思想が不可欠になりました。

そこで、共産主義思想に対抗し、総力戦に対応できるようにするため、天皇の権威を高める必要に迫られます。こうして誕生したのが天皇を神として奉る現人神(あらひとがみ)という思想です。天皇は単なる世俗の君主ではなく、神の子孫であり、現世に顕現した神であるという思想が強調され、臣民の精神的支柱となり、国家への絶対的な帰属意識を醸成する上で極めて強力に作用しました。この結果、次のような「権威」「権力」「民衆」の三層構造が成立します。

  • 権威: 天皇(国家神道・現人神)
  • 権力: 明治新政府
  • 民衆: 臣民(天皇の赤子)

伝統が支える国家観

現人神としての天皇の概念がスムーズに受け入れられた背景には、古代から続く天皇神聖視の伝統が挙げられます。もともと日本には、太古(おそらく飛鳥時代以前)から天皇は神の子孫であり、現世に現れた神(現御神・あきつみかみ)であるという観念が根強く存在しました。

また、天皇の赤子という理念がスムーズに受け入れられた背景には、前時代から「天皇を人々(民衆)の父と仰ぎ、日本という『家族』の一員である」という象徴的な意味合いでの一体感が社会の広範な層に浸透しており、それが受容の心理的な素地として、潜在的ながらも重要な役割を果たしたと言えるでしょう。

こうして日本は、「帝国主義」「共産主義」「総力戦」という欧米が生んだ巨大な渦に抗するため、「天皇」を軸に自国の存立を守ろうとしたのです。

大日本帝国の栄光と挫折

列強への仲間入りと新たなコントロール欲求

天皇を中心とする日本臣民として団結した日本は、欧米列強という不安要素をコントロールするため、「富国強兵」「殖産興業」をスローガンに国民国家としての道を着実に歩んでいきます。西欧から導入した技術と軍事力を背景に日清戦争日露戦争を勝ち抜き、アジアで唯一列強の仲間入りを果たします。第一次世界大戦後に創設された国際連盟では、唯一の常任理事国となり、五大国の一角を占めるまでになります。

世界恐慌と第二次世界大戦への道

しかし、1929年の世界恐慌後にブロック経済が世界経済の主流となると、日本は資源や市場の確保といった「不安」と、独自の円ブロック大東亜共栄圏)の構築という経済的コントロール欲求に駆られました。このため、中国大陸、特に満州へ活路を求め大陸進出を強めていきます。これは、欧米、特にアメリカの利権と衝突し、第二次世界大戦へと突入します。日本は1941年から参戦し、アメリカの圧倒的な経済力と技術力、そして物量を前に壊滅的な被害を受け、ポツダム宣言を受諾して敗北しました。

権威の限界

日本は、円ブロック構築に伴う植民地の拡大により、天皇への忠誠を求める思想を植民地にも普及させようと試みました。しかし、天皇を中心とする国家観や思想を東アジアや東南アジアなどの他国に根付かせることは極めて困難であり、多くの抵抗に直面しました。これは、権威が、その受け入れ側の「心理的な素地」や「共有された前提」がなければ、たとえ強制しても真に機能しないことを示唆しています。これは現在の日本の自由・民主主義にも同様のことが言えますので別に解説します。天皇が日本国内で権威として機能したのは、長年の歴史と伝統に根ざしたものでした。

まとめ

明治維新以降、日本は欧米列強に対抗するために、天皇を権威の中核に据えた強固な国家体制を築き上げました。その過程で、人々は臣民として国家に統合され、驚異的な速さで近代化を成し遂げ、世界の大国へと成長します。しかし、そのコントロール欲求がやがて他国との衝突を引き起こし、最終的には国家を崩壊の危機に陥れることになりました。

次の時代、第二次世界大戦後の日本は、この敗戦という未曾有の経験から、新たな国家の形を模索することになります。天皇という権威は、どのような形で存続し、人々は「臣民」から「国民」へと、いかにして変わっていったのでしょうか?

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