天皇親政という、律令と日本独自の神聖な権威が融合した理想的な国家モデルは、長くは続きませんでした。平安時代中期になると、その統治システムは形骸化し、やがて武士という新たな勢力が台頭します。
律令制の理想が崩壊し、権力が天皇から武士の手に渡った約800年間、天皇は「政治を行う人」から「政治にお墨付きを与える人」へと、その役割を大きく変化させていきました。この記事では、武家が権力を掌握した時代に、天皇がなぜその権威を失うことなく生き残り、日本の骨格を形作り続けたのかを、権威と権力の関係から紐解いていきます。
武家政権の誕生:新たな三層構造の定着
律令制のもとで整備された天皇親政の体制は、平安時代中期頃には形骸化し、摂関家といった貴族や天皇を退位した上皇・法皇が実質的な権力を掌握するようになります(前者を摂関政治、後者を院政といいます)。
やがて、武士が軍事力を背景に台頭し、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府といった武家政権が実質的な支配者となります。
この約800年間、天皇は直接的な政治的「権力」を行使することは稀になりましたが、その「権威」は列島全体を統合する最高位の存在として不動のものとなります。こうして次の三層構造が定着します。
- 権威: 天皇
- 権力: 摂関家(平安中期)→上皇・法皇(平安後期)→武家(鎌倉・室町・江戸)
- 民衆: 権力者に支配される人々
仏教と儒教の役割の変化
天皇親政期に天皇の権威を補強していた仏教と儒教は、その役割が変化し、実質的な「権力」を握る武家や、広範な「民衆」の思想的・倫理的・信仰的基盤として深く浸透していきました。
- 仏教: 鎌倉時代に武士の精神的支柱(特に禅宗)になるとともに、民衆の心の拠り所(鎌倉新仏教)となります。室町時代になると幕府は五山十刹制度などを設けて、禅宗寺院の経済力や政治的影響力をコントロール下に置きました。江戸時代、幕府がすべての民衆をいずれかの寺院の檀家に組み込む寺請制度を定めたことで、寺院は幕府による民衆支配の一端を担うことになりました。
- 儒教: 武家社会の倫理規範となります。鎌倉時代以降、禅宗とともに受容が進み、武士の教養や思想に影響を与えました。江戸時代、幕府は身分秩序を正当化する朱子学を正統教学として採用し、教育を通じて武士階級に広く浸透させました。
さらに、神道と仏教を融合する動きも登場し、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が広く受け入れられるようになりました。これは、日本の神々は、実は仏が人々を救うために仮の姿として現れたものである、とする思想であり、神仏習合の根幹をなす理論として、人々の信仰に深く浸透していきました。
権力の正当性と系譜意識
政治の実権が摂関家や武家へと移行する中で、新たな支配者たちは民衆を効率的にコントロールするため、自らの権力に正当性を持たせる必要に迫られました。彼らは、依然として日本全体の最高位の「権威」であり続けた天皇を巧みに利用しました。
支配者の出自と系譜意識
支配者たちは、自身の親戚や先祖が天皇家、あるいは天皇家から分かれた名門(源氏や平氏など)に連なると主張し、家系図を整備・改変することで、統治の正当性を獲得し、権力を安定させていきました。
- 摂関政治の例: 摂関政治の主役、藤原氏は、娘を天皇の后として入内させ、その子を天皇に即位させることで、天皇の外祖父となりました。幼い天皇のために摂政として、成人した天皇のために関白として政務を代行・補佐することで、実質的な権力を握りました。藤原道長の時代が摂関政治の最盛期でしたが、藤原氏を外戚としない後三条天皇の登場により、摂関政治は衰退し、院政へと移行するきっかけとなりました。
- 院政の例: 院政とは、譲位して上皇となった天皇が、天皇の代わりに政治を行う体制です。これは、藤原摂関家と外戚関係を持たない天皇が増えたことで、彼らが独自に政治の実権を握ろうとした結果、確立されました。白河天皇は、自ら天皇の位を譲り、上皇となって院政を開始しました。これにより、上皇は院庁という独自の機関を設け、摂関家や武家から独立した権力を持ち、政治の中心となりました。
- 武家政権の例:
- 北条氏: 平氏の一族で、将軍になる資格がなかったため、源氏の将軍が絶えた後、執権として実権を握りました。その上で、京都から皇族や摂関家を将軍として迎えることで、権威のある血筋を傀儡として利用しました。
- 足利尊氏: 清和源氏の嫡流という揺るぎない出自を持ち、源頼朝以来の武家の棟梁としての地位を正当化しました。
- 織田信長: もともと越前国織田荘の神官の家系でしたが、自らの家格を高めるために平氏の末裔を自称しました。
- 豊臣秀吉: 農民出身で出自がなかったため、藤原氏の養子となって関白に就任し、朝廷から「豊臣」の姓を賜ることで、新たな権威を創出しました。
- 徳川家康: 地方豪族の松平氏出身でしたが、征夷大将軍に就任するために、清和源氏の末裔を称し、家系図を改変しました。
系譜意識の社会全体への浸透
支配層による天皇への系譜的接続を求める動きは、中世から近世へと長期にわたり継続されました。特に江戸時代に社会が安定し身分制度が固定化されると、この権威による補強は、大名から下級武士、さらには力をつけた豪農や豪商に至るまで、幅広い階層で求められるようになりました。家系図は現在の履歴書に相当し、家格ひいては俸給を決める重要な要素となったのです。そのため、江戸時代には、実際とは異なる家柄を記した偽の家系図を作成・販売する「系図屋」と呼ばれる商売が成立しました。
こうした長年にわたる系譜意識の形成過程は、単なる権力者の「箔付け」に留まりませんでした。「日本という共同体の最高位の祖先」としての天皇、あるいは「民を慈しむべき親」としての天皇という漠然とした意識が、社会の広範な層に浸透する心理的な素地を醸成していったのです。
世界的には、権力者が独自の権威を打ち立てたり、一神教といった普遍的な権威を権力の正当性に用いたりしましたが、日本では天皇が権威としての役割を担い続けたという点で、独自の歴史的特異性が見られます。
民衆意識の根底に残った「大御宝」思想
また、天皇親政の時代に民衆統合の理念として用いられた大御宝(おおみたから)という思想は、武士の時代となっても人々の意識の根底に深く根付き、時に彼らが不当な領主層に対抗する際の精神的な支柱、あるいは「あるべき統治」の規範として機能しました。中世の惣村における自治や百姓一揆の動きは、この人々の意識が具現化した一例とも言えるでしょう。
まとめ
武士が実質的な権力を握った時代、天皇は政治の「権力」から離れ、日本を精神的に統合する「権威」としての役割を確立しました。
この時代、日本の社会には独特な三層構造が形成されました。
- 天皇: 政治的権力を持たないが、武家が支配の正当性を得るために利用する権威の象徴。
- 武家: 天皇の権威を借りて統治を行う、実質的な権力者。
- 民衆: 天皇親政時代以来の大御宝思想(民衆は天皇にとって大切な存在であるとの意識)を根底に持った人々。
この三層構造は、日本の社会や人々の意識に深く影響を与え、その後の日本のあり方を決定づける重要な要素となりました。