部族社会:豊かな自然が育んだ農業革命なき定住社会

人類の歴史は、常に「不安」と、それを乗り越えようとする「コントロール欲求」によって動かされてきました。今回は、日本列島の黎明期、縄文時代に見られた部族社会に焦点を当てます。地球規模の気候変動がもたらした不安は、人々の生活様式を根底から変え、それに対するコントロール欲求が、部族社会と独自の文化を育むことになったのです。

温暖化がもたらした豊かな自然

およそ16,000年前、最終氷期が終わりを告げ、地球は温暖化の時代へと突入しました。海水面の上昇によって大陸から切り離された日本列島は、現在とほぼ同じ形になりました。

この気候変動は、生態系にも大きな変化をもたらしました。ナウマンゾウなどの大型動物は姿を消し、代わりにイノシシニホンジカといった中小型動物が森の主役になります。そして、温暖な気候は豊かな森と海の恵みをもたらしました。クリクルミが実り、魚介類が豊富に手に入る、まさに楽園のような環境が広がっていったのです。

定住生活がもたらした部族社会

この豊かな自然は、人々の生活様式を一変させました。これまで大型動物を追いかけて移動するバンド社会を送っていた人々は、一つの場所に留まり、定住生活を始めるようになります。人々は数百人規模の集落を形成し、血縁や地縁を基盤とする部族社会を形成します。

部族社会を営むようになった人々は、食料の安定供給や共同体の安全と繁栄という形で、自然や社会に対する「コントロール欲求」を強めていきました。定住化によって共同体の人数が増えたことで、集落をまとめるためのルールや秩序を作る必要が出てきます。

この欲求から生まれたのが、集落の指導者や、祖先との繋がりを持つとされる人々、つまり伝統的な権威です。彼らは祭祀を司り、豊穣や平和を祈願することで、人々の不安を和らげ、共同体の秩序をコントロールする役割を担いました。しかし、この時代の共同体の意思決定は合議制が中心であり、後の時代に見られるような、一部の権力者が人々を支配するような権力はまだ存在しませんでした。

  • 権威: 豊穣神、祖先崇拝、集落の指導者(村長、祭司的な役割)など
  • 権力: なし(共同体の意思決定は合議制が中心)
  • 民衆: 部族を構成する人々

縄文時代の生活と文化

定住生活は、独自の文化を花開かせました。

  • 縄文土器: 定住生活が可能になったことで、重くて壊れやすい土器が発明されました。世界最古級とされる縄文土器は、食料の煮炊きや保存に役立つ画期的な道具であり、調理法も多様化しました。土器の表面に施された縄目の文様が縄文文化を象徴しています。
  • 石器: 大型動物が減少したことで、人々は俊敏な中小動物を狩るために石鏃を発明しました。青森県の大平山元遺跡からは、世界最古級とされる石鏃が発見されています。さらに、温暖化によって広葉樹林が広がり、木材の利用が増えたことが、石器全体を滑らかにする「全面磨製石器」の発展を促しました。これにより、狩猟道具や木材加工の技術が大きく発展しました。
  • 広範囲な交易: 黒曜石ヒスイを運ぶなど、日本列島の広範囲にわたる活発な交易が行われていました。例えば、新潟県のヒスイが種子島や北海道の奥尻島から発見されたり、伊豆諸島の神津島の黒曜石が長野県八ヶ岳山麓で発見されるなど、海を介した高度な交易網があったと考えられます。
  • 精神文化: 人々の精神世界で、不安をコントロールするための象徴となったのが土偶です。豊穣や安産を祈願したり、死者を弔ったりと、様々な願いが込められていました。また、屈葬と呼ばれる独特な埋葬習慣も、当時の死生観や共同体の秩序を示すものです。

これらの文化は、狩猟や採集を主体としながらも、安定した食料供給と共同体の維持・繁栄を求めるコントロールの欲求によって生み出されたのです。この時代の高度な定住生活を物語る遺跡として、鹿児島県の上野原遺跡や青森県の三内丸山遺跡、また世界最大の貝塚として知られる千葉県の加曾利貝塚などなど、数多くの重要な史跡が挙げられます。

「農業革命なき定住社会」という特異性

縄文時代が始まった頃、世界の他の地域では何が起きていたのでしょうか? メソポタミアや中国では、温暖化に伴う灌漑農業が発達し、農業革命が起こっていました。これは定住化とセットで進んだのです。

一方、日本列島は、温暖化によって極めて豊かな森と海の恵みを享受できました。そのため、メソポタミアや中国とは異なり、人々は大規模な農業を本格的に始める必要がありませんでした。狩猟・漁労・採集の技術を高度化させ、クリやクルミなどを巧みに利用することで、安定した食料供給を確保したのです。

この狩猟採集を主体とした定住社会というあり方は、世界的に見ても非常に珍しいものでした。豊かな自然が、日本に住む人々に独自の進化の道を与えたと言えるでしょう。

定住生活がもたらした新たな不安

しかし、定住化と集落の拡大は、新たな「不安」も生み出しました。自然災害や疫病、そして、隣接する集団との縄張り争いや、共同体内部の対立といった問題です。

縄文時代は平和だったという従来のイメージを覆す、暴力の痕跡も発見されています。例えば、愛知県伊川津貝塚で出土した成人男性は、骨に石鏃が嵌入している状態で出土しました。また、北海道の有珠モシリ遺跡では、石斧のような道具で殴打された痕跡のある頭骨が発見されました。

とはいえ、暴力の痕跡が見つかる人骨の割合は、弥生時代以降に激増する集団的な戦闘の証拠とは異なり、極めて低い割合に留まっています。研究者の間では、集落間の大規模な戦争というよりは、個人的な争いや集落内部の対立によるものと考える意見が一般的です。

まとめ

縄文時代は、「不安」を「コントロール」するために定住し、部族社会を築き、独特な文化を生み出した時代でした。一部で争いの萌芽も見られるものの、総じて豊かな自然に恵まれ、平和で安定した時代が10,000年以上続いたといえます(もちろん、縄文時代の平均寿命は現代と比べ著しく低く、中には10代前半との研究結果もあるため、この点から見たら不幸とも言えます・・・)。

その後、稲作技術の伝来によって、この平和で安定した時代は大きな転換点を迎えることになります。

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