部族社会:農業革命と定住化

人類史

人類が地球上で最も長く営んできた社会形態は、常に移動し、自然の恵みを直接利用して生きていたバンド社会でした。しかし、約1万年前、最終氷期が終わり地球の気候が温暖化に向かう中で、人類は農業革命という劇的な変革を経験します。この革命は、食料確保のあり方を根本から変え、私たちの祖先が抱える不安の質を大きく変化させました。それに対応するためのコントロール欲求が新たな段階へと引き上げられ、その結果として「部族社会」という、より大きく複雑な社会形態が誕生したのです。

気候変動と人口増加

最終氷期の終わりは、地球環境に大きな変化をもたらしました。気温の上昇と降雨量の増加により、豊かな植生が広がり、特定の地域では野生の穀物(小麦、大麦など)や家畜化に適した動物(野生の牛、羊、山羊など)が豊富に存在するようになりました。

食料確保に対する「不安」の変化

バンド社会の移動型狩猟採集生活では、食料が常に手に入るとは限りませんでした。獲物の移動や植物の収穫の季節変動により、食料不足の不安は根源的なものでした。しかし、特定の場所で安定的に食料が得られることが分かってくると、「この豊富な食料を、この場所でずっと手に入れることはできないだろうか?」という食料の安定確保へのコントロール欲求が芽生え始めます。これは、移動に伴う「獲物を追い続ける不安」や「見知らぬ土地への不安」から解放されたいという願望でもありました。

人口増加に対する「不安」の発生

食料が比較的安定して得られるようになると、人類の人口は徐々に増加し始めます。移動生活では乳幼児を抱えての移動が困難なため出産間隔が長くなる傾向にありましたが、定住の兆しが見え始めるとその制約が緩和され、より多くの子供を育てることが可能になります。人口が増えれば、これまでの狩猟採集だけでは増え続ける人口を支えきれないという、新たな食料確保のプレッシャーが生まれてきたのです。

農業革命

このような不安とプレッシャーが、人類史上最大の転換点となる農業革命(新石器革命)を駆動しました。約1万年前、中東の「肥沃な三日月地帯」を皮切りに、人類は野生の植物を意図的に栽培し(農耕)、野生動物を飼いならし(牧畜)、食料を人為的に生み出す術を手に入れ始めました。これはまさに、食料をコントロールしたいという究極の欲求が導き出した結果でした。

農耕の誕生:大地の恵みを「コントロール」する

野生の穀物の種をまき、水をやり、収穫するという行為は、それまでの「自然から与えられるものを受け取る」という受動的な態度から、「自ら食料を生産する」という能動的な態度への大転換でした。これは、食料供給の不確実性という最大の不安を、自分たちの労働と工夫によってコントロールできるようになった画期的な出来事です。主な作物としては、中東では小麦や大麦、中国ではアワやコメ、アメリカ大陸ではトウモロコシやジャガイモなどが栽培され始めました。

牧畜の誕生:動物を「コントロール」する

動物の家畜化もまた、食料と労働力の確保をコントロールする上で不可欠な要素でした。飼いならした家畜から継続的に肉、乳、毛皮を得ることは、安定供給という点で革命的でした。さらに、家畜は労働力としても利用され、後の農耕効率の向上に大きく貢献しました。中東ではヤギ・ヒツジ・ウシなど、アジアではニワトリなどが家畜化されました。

部族社会の形成

農業革命は、人類に定住という新たなライフスタイルをもたらしました。作物栽培には定期的で継続的な手入れが必要であり、収穫物を貯蔵するためにも移動は非効率でした。こうして、数百人規模の定住的な部族社会が世界各地で形成されていきます。

定住集落の発展と共同体の必要性 

小規模なバンドが集まって、より大きな集落を形成し始めました。例えば、メソポタミア北部のジャルモやアナトリアのチャタル・ヒュユクのような遺跡は、初期の農耕・牧畜民の定住集落の典型です。これらの集落では、日干しレンガで家屋が密接に立ち並び、共有の貯蔵施設や共同作業のための広場なども見られました。定住化は、食料の安定供給だけでなく、集団内の協力関係をより強固なものにする必要性を生みました。広大な土地の開墾、灌漑施設の建設、貯蔵施設の維持管理、そして収穫物の分配など、大規模な共同労働が不可欠となったのです。

「血縁・地縁」を基盤とした社会構造と新たな「権威」

部族社会では、血縁・地縁が統合の基盤となりました。また、集落の運営や共同労働の調整、部族間の紛争解決などは、部族の長や長老などが意思決定の中心を担いました。彼らは、血縁集団の代表者であったり、豊富な経験と知識を持つ高齢者であったり、あるいは優れた指導力を持つ者であったりと様々ですが、その「権威」は、部族全体の安定と繁栄に貢献する能力によって認められました。

新たな「権威」の誕生

農耕・牧畜の開始と定住化は、人類の「不安」の対象を変化させました。食料不足の不安は軽減された一方で、作物の豊作・不作、家畜の繁殖、疫病の流行、そして隣接する部族との資源を巡る争いなど、新たな不安が生まれてきました。これらの新たな不安をコントロールする手段を模索した結果、「豊穣神」や「祖先崇拝」といった、部族社会に特有の精神的な「権威」が誕生します。

豊穣神の誕生

農耕生活において、作物の豊作は集団の存続を意味します。しかし、豊作は雨や太陽、肥沃な大地といった自然の力に大きく左右されたため、人々はこれらの自然現象を司る「豊穣神」を信仰するようになりました。豊穣神は、生命の誕生、成長、そして再生を象徴し、大地に恵みをもたらす存在として崇められました。豊穣神への信仰は、季節ごとの祭りや儀式を通じて表現され、共同体全体が一体となって神への信仰を共有し、連帯感を高め、共同体の結束を強化する機会となりました。多くの新石器時代の遺跡から発見される女性をかたどった土偶や彫像は、生命の多産や豊穣を願う地母神(豊穣神の一種)のシンボルであったと考えられています。

祖先崇拝の誕生

定住化が進み特定の土地に長く暮らすようになると、その土地で生まれ死んでいった祖先への意識が高まります。祖先は、血縁の繋がりを通じて現在の部族と結びついており、彼らの霊は子孫の繁栄を見守り、時には災いを遠ざけると信じられました。集落の近くや住居の下に死者を埋葬し、副葬品を供える慣習は、祖先との繋がりを物理的にも精神的にも維持しようとする試みでした。さらに、祖先の功績や部族の起源に関する神話や口頭伝承が、世代から世代へと語り継がれ、部族のアイデンティティを確立し、共通の歴史と価値観を共有する精神的な「権威」として機能しました。

豊穣神や祖先崇拝といった新たな「権威」は、単なる信仰にとどまらず、部族社会の具体的な行動を方向づけました。例えば、豊穣神への信仰は、農地の共同管理や灌漑施設の維持といった大規模な労働協力のモチベーションとなり、祖先崇拝は、部族間の争いにおいて共通の祖先を持つ集団が結束する理由となりました。

資源を巡る争いと新たな「不安」

部族社会は、バンド社会に比べて食料が安定し、人口も増加しましたが、それによって新たな種類の「不安」と「コントロール欲求」が生まれてきました。

土地と資源の有限性

定住化は、土地への愛着と所有意識を生みました。しかし、土地は有限であり、肥沃な土地は限られています。人口増加に伴い、より多くの土地や水源が必要となり、隣接する部族との間で土地と資源を巡る争いが頻発するようになりました。これは、これまでの自然の不確実性とは異なる、人間関係から生じる新たな「不安」でした。

外部からの脅威への対応

食料の余剰は、貯蔵施設の発達を促し、それが他部族からの略奪の対象となる可能性を生みました。そのため、集落の防御や、外部からの脅威に対応するための集団的な防衛システムを構築する必要性が高まりました。これらの新たな課題に対し、部族社会は、より組織的な防御や、部族間の同盟、あるいは紛争解決のためのルール作りといった形で対応していきました。しかし、これらの課題は、部族という枠組みでは解決しきれないほど大規模なものへと発展し、次の段階である「初期国家」の形成を促す原動力となっていきます。

まとめ

部族社会の誕生は、人類が食料の生産という画期的なコントロール方法を手に入れたことで実現した、人類史における重要な転換点です。この時代、人類は単なる自然の利用者から、自然に働きかけ、自らの生活を積極的に設計する存在へと進化しました。

定住化とそれに伴う人口増加は、新たな社会構造を生み出し、血縁と地縁を基盤とした部族共同体が形成されました。そして、食料の安定と繁栄への願い、共同体の継続性への欲求が、豊穣神や祖先崇拝といった新たな「権威」を生み出し、部族の結束と秩序維持に貢献しました。

しかし、食料生産の成功がもたらした資源の集中と人口増加は、同時に新たな「不安」、すなわち資源を巡る争いや外部からの脅威という課題も生み出しました。これらの課題に直面する中で、人類はさらに大きな集団の統合に迫られ、「初期国家」の形成へと向かいます。

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