帝国の再編:屈辱の100年と新たな社会統合の模索

中国史

世界の中心として君臨してきた中華帝国が、その伝統的な権威と社会のあり方を根本から問い直される時代を迎えました。それは、西欧列強の波に直面し、自国の行く末をいかに導くか模索した、「不安」と「コントロール欲求」の物語です。

前回の記事で、中国が宋代に皇帝と官僚を中心とする中央集権国家を完成させ、約千年間にわたる安定を享受したことを解説しました。しかし、19世紀中頃からこの安定は揺らぎ始めます。遠い海を越えてきた西欧列強の軍事力と経済力が、中華帝国の持つ伝統的な権威と秩序を根底から崩壊させていったのです。

アヘン戦争と日清戦争による中華帝国の瓦解

秦・漢代で誕生し、宋代で完成した中華帝国の仕組みは、イギリスが清朝に攻撃を仕掛け、日本がとどめを刺す形で崩壊へと向かいます。

アヘン戦争と太平天国の乱 

最初の大きな圧力は、イギリスが主導したアヘン貿易でした。当時、イギリスは中国から茶や絹などを輸入する一方、中国に輸出できるものが少なく、貿易は大幅な赤字でした。この貿易不均衡を是正するため、イギリスはインドで栽培したアヘンを中国に密輸し、巨額の利益を上げます。この三角貿易は、清朝の銀が大量に流出するという深刻な事態を招きました。

清朝はアヘンの取り締まりを強化しましたが、これに反発したイギリスとの間で、1840年にアヘン戦争が勃発しました。清は軍事力の差を前に惨敗し、香港の割譲などを定めた不平等な南京条約を結ばされます。この敗戦は、中華が夷狄に敗北したという事実が、清朝の根幹を揺るがす深刻な不安を突きつけました。

この不安は、国内にも飛び火しました。同時期、キリスト教の影響を受けた宗教結社である太平天国が、「滅満興漢(満州族の清朝を滅ぼし、漢民族を興す)」を掲げて大規模な反乱を起こします。清朝は反乱を鎮圧するため、地方の名士や郷紳(知識人・地主層)に郷勇(私兵)を組織させ、彼らを動員しました。この郷勇は、清朝の正規軍が弱体化していたため、反乱鎮圧に大きな力を発揮しました。しかし、彼らは中央政府の支配下になく、その指導者である地方官僚(曾国藩や李鴻章など)が軍事力を持つことで、中央の統制が弱まる原因となりました。

日清戦争と義和団事件 

これらの内外の危機に対し、清朝は西洋の技術を取り入れて国力再建を目指す洋務運動に着手しました。しかし、これは表面的な技術の導入にとどまり、政治制度という根本的な改革には踏み込みませんでした。この改革の失敗は、1894年の日清戦争での敗北によって決定的となります。

かつての朝貢国であり、「小国」と見なしていた日本に敗れたことは、清朝の権威の完全な失墜を意味しました。この敗戦を機に、列強による中国の半植民地化が加速し、中国分割の危機を招きます。また、外国人を排斥しようとする宗教結社の義和団が、「扶清滅洋(清を助け、西洋を滅ぼす)」をスローガンに反乱を起こすなど、清朝は内外からの圧力により存亡の危機に立たされます。

辛亥革命と中華民国の誕生

日清戦争での敗北は、清朝に軍事制度の根本的な改革を迫りました。清朝は、旧式の軍隊に代わる近代的な新軍を各地で編成しました。この新軍には、革命思想を持つ青年や兵士が多数参加しており、後の辛亥革命で中心的な役割を果たすことになります。

この状況の中、海外で活動を続けてきた孫文が、革命の指針となる「三民主義」を提唱します。これは、民族主義(満州族打倒と中国の独立)、民権主義(主権在民の共和制)、民生主義(国民生活の安定)という3つの原則から成り立ち、多くの革命家に影響を与えました。

1911年、清朝に対する国民の不満が高まる中、武昌に駐屯していた新軍の兵士たちが蜂起しました。この動きはたちまち全国に波及し、辛亥革命が勃発します。革命後、海外で活動していた孫文が帰国し、臨時大総統に就任して中華民国を樹立しました。

しかし、孫文が軍事力を持たなかったため、軍事的な実力を持つ清朝の重臣、袁世凱との交渉に臨みます。清朝皇帝が平和的に退位することを条件に、孫文は大総統の地位を袁世凱に譲ることを約束しました。この政治的取引によって清朝は終焉を迎え、中華民国が実質的な国家として歩み始めました。

二大政党と軍閥の対立

郷勇から軍閥へ 

清朝の滅亡によって、地方で力を得ていた郷勇の指導者たちは、軍閥となります。郷勇は、清朝の枠組みの中で、太平天国の乱を鎮圧するために地方官僚が組織した「中央政府に従う私兵」でした。しかし、清朝が消滅したことで、その指導者たちは中央政府から独立し、自らの軍事力を背景に利権を争う「地方の武装勢力」となったのです。

国民党と共産党の台頭 

袁世凱の死後、各地の軍人が軍閥として割拠したことで混乱が本格化します。この混乱は、1919年の五・四運動へとつながります。第一次世界大戦後、中国は戦勝国でありながら、日本の二十一カ条の要求が事実上認められ、敗戦国ドイツの権益が日本に引き継がれることが決定しました。この「売国的」な外交に激怒した学生たちが、大規模な抗議デモを起こしました。

五・四運動は、その後の中国の運命を決定づける二つの政治勢力を本格的に台頭させました。

  • 国民党:孫文は五・四運動で示された大衆の力に注目し、党を再編。反帝国主義を掲げる大衆政党へと変貌しました。
  • 中国共産党:五・四運動の高まりの中で、マルクス主義に傾倒した知識人たちが1921年に上海で結成。貧しい農民を革命の主体とすることで社会変革を目指しました。

二大政党VS軍閥 

この二大政党と軍閥の割拠状態は、ソ連と列強による代理戦争の様相を呈しました。ソ連は、反帝国主義という戦略的な利害の一致から、国民党と共産党が協力するよう働きかけ、両党を支援しました。ソ連の援助は、国民党が設立した黄埔(こうほ)軍官学校への武器供与などを通じて、軍閥を打倒するための強力な基盤を築きました。一方、日本やイギリスといった列強は、中国が統一されると自らの利権が失われるという不安を抱き、軍閥に資金や武器を供与して彼らの対立を煽りました。

ソ連の仲介により、国民党は党を再編し、1924年から中国共産党との連携を深める第一次国共合作が実現しました。両党は協力して軍閥を打倒し、蒋介石による北伐によって中国は名目上統一されました。

日本との戦争と国共内戦

日中戦争 

しかし、北伐の途中、共産党の勢力拡大を恐れた蒋介石は1927年に第一次国共合作を破棄し、共産党への弾圧を開始し、国共内戦が勃発します。蒋介石はもともと共産党勢力を敵視していたためです。結果北伐は完了しますが、国民党VS中国共産党の構図で対立が深まります。その後、防共と円ブロック構築を目的とする日本の中国大陸への侵攻が満州事変(1931年)によって本格化し、日本の傀儡国家である満州国が建国されました。共通の危機に直面した両党は、第二次国共合作を結び、抗日戦争を戦い抜きました。

国共内戦と中華人民共和国の成立 

日本の敗戦後、両党は再び内戦に突入します。当初、アメリカの支援を受けた国民党が優位に立ちましたが、共産党は、国民党との内戦が始まると、農村を拠点に貧しい農民の支持を得るために土地改革を断行しました。これは、地主から土地を没収して農民に分配する政策でした。これにより、農民は「自分の土地」を得られるという希望から、圧倒的な支持を共産党に与えました。

共産党軍は次第に優勢となり、1949年、国民党政府は台湾へ撤退。そして同年10月1日、毛沢東中華人民共和国の成立を宣言しました。

まとめ

「屈辱の100年」とも呼ばれるこの時代は、中国が自らの手で国家のあり方を再定義しようとした壮大な物語でした。最終的に、共産党が農民という圧倒的な民衆の支持を得て、中国は共産党による中国統一が達成され、新たな社会像が確立されます。これは、古代以来の中央集権という伝統的なシステムを、共産主義という全く新しいイデオロギーと結びつけて再構築する試みでした。

次回は、この中国共産党による国家運営が、現代中国、そして世界のあり方にどのような影響を与えたのかを考察します。お楽しみに!

参考文献

岡崎久彦「戦略的思考とは何か」中公新書(1983)

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