人類の歴史は、人々が抱く「不安」と、それを「コントロール」しようとする欲求が社会を形作っていく物語です。
紀元前2000年頃の気候変動は中国各地の初期国家社会に大きなダメージを与えました。しかし、こうした危機の中から、王朝という仕組みが整えられ、文明の基盤となる「文字」「貨幣」、そして後の中国社会を統合する「思想」が誕生してきます。今回は、巨大な中華帝国をまとめる礎となったこれらの革新がどのように誕生したかを見ていきましょう。
王朝の誕生:夏(紀元前2070年頃~紀元前1600年頃)
4.2kイベントと呼ばれる気候変動は、干ばつや洪水をもたらし、黄河中流域を衰退に導きました。しかし、黄河中流域の二里頭遺跡の人々は、単一の穀物に依存せず、アワ・キビを主とする雑穀にムギ・イネ・ダイズを組み合わせた輪作を行うことで気候変動に耐えうる穀物収穫に成功します。これは、交通の結節点であったこの地が、多様な文物や発想が流入する環境にあったためと考えられます。
食糧確保に成功した一方で、交通の要衝という土地柄は、北方の民族の侵入という新たな脅威をもたらしました。この不安を乗り越えるため、人々は城壁に囲まれた集落「邑(ゆう)」を形成し、やがて複数の邑が連合して夏王朝が誕生します。伝説では、初代王・禹(う)が大規模な治水事業を成功させ、人々の信頼を勝ち取ったとされています。これは、気候変動に対処した功績が認められ、邑を束ねる地位に上り詰めたことを示唆していると考えられます。
夏王朝の都とされる二里頭遺跡からは、玉器や青銅器に加え、宮殿跡も見つかっています。このことから、中国文明を特徴づける宮廷儀礼がこの頃誕生したと考えられます。しかし、文字が存在しなかったため実態ははっきりしておらず、夏王朝は伝説的な存在として扱われることもあります。
王朝の拡大:殷(紀元前1600年頃~紀元前1046年頃)
夏王朝が衰退すると、新たな盟主として殷王朝が台頭します。殷は夏よりも広範な地域を支配し、国家としての性格を強めていきました。この時代に登場したのが、文明の基盤となる画期的なシステム、文字と貨幣です。
殷の王は、神や祖先神の意思を問う神権政治を行いました。その占いの結果を記録するために、甲骨(亀の甲羅や獣の骨)に刻まれたのが、漢字の祖型となる甲骨文字です。甲骨文字は表意文字のため、言葉の音ではなく意味を直接表します。この特性から、異なる言語を話す人々にも理解されやすく、後に東アジア各地で広く用いられる漢字の礎となりました。文字が生まれたことで、王の命令を正確に伝えることが可能になり、広大な領土を統治する基盤が築かれます。
また、商業圏の拡大に伴い、南方で採れる子安貝が貨幣(貝貨)として使われ始め、取引が飛躍的に効率化しました。今日でも「財」や「買」といった漢字に「貝」が使われているのは、この時代の名残です。


【写真】甲骨文字(出典:中国国家博物館) 【写真】貝貨(Wikipediaより)
王朝交代の理念:周(紀元前1046年頃~紀元前256年)
牧野の戦いで殷を滅ぼした周王朝は、神権政治とは異なる統治システムを確立しました。それが封建制です。周の王は、一族や功臣に領土を与えて諸侯とし、軍役と貢納を義務付けました。この封建制は、王と諸侯の宗族と呼ばれる血縁関係を基礎としており、秩序や祖先祭祀の方法を定めた宗法によって結束を固めました。国家全体を大家族とみなすことで、統治の安定を図ったのです。
周は、殷王朝から天下を奪った正当性を示すため、天命思想を打ち立てました。「天は徳を失った殷に代わり、徳のある周に天下を治める命を与えた」というこの考えは、後の中国の王朝交代の理念となりました。
しかし、血縁関係を基礎とした体制は、時代が下るにつれて結束が緩んでいきました。やがて、西方の遊牧民の攻撃を受け、周は都を東へ移します。これ以降、周王室の権威は失墜し、中国は分裂と抗争の時代へと突入しました。
分裂と思想の開花:春秋・戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)
周王室の権威が失墜すると、各地の諸侯が独立し、互いに覇権を争う春秋時代が始まります。
この時代には、ユーラシア大陸全体にわたって鉄器が普及しました。鉄製農具や牛耕農法が導入されたことで、農業生産力が飛躍的に増大します。それに伴い経済も発展し、各地で刀銭や布銭、円銭といった青銅貨幣が流通し、商業活動が活発になりました。
こうした社会経済の変革は、周王室を中心とした従来の秩序を揺るがしました。都市国家の秩序が通用しなくなり、周王室の権威が完全に失墜したことで、実力主義が支配する戦国時代へと移行します。やがて長い戦いの結果、戦国の七雄と呼ばれる有力な七国(楚、燕、韓、魏、趙、斉、秦)に収斂されていきます。
諸子百家の登場
春秋戦国時代は550年にもわたる混乱の時代でしたが、同時に新たな社会のあり方が模索された時代でもありました。戦乱と社会の変化は、人々により良い社会のあり方について深く考えさせました。これにより、諸子百家と呼ばれる多くの思想家たちが現れ、それぞれの思想を説きました。
- 儒家:孔子によって創始され、周の時代の秩序に戻ることを理想とし、礼や仁といった道徳を重んじました。
- 法家:韓非によって大成され、道徳ではなく、法と厳格な統治によって社会を管理する現実的な思想を説きました。
- 道家:老子や荘子によって広まり、自然の摂理に従って生きることを説きました。
これらの思想は、その後の中国の歴史と文化に大きな影響を与え、特に法家の思想は、後に中国を統一する秦の統治の根幹となりました。
まとめ
夏から春秋戦国時代にかけて、中国の社会は原始的な邑から、広範な文化圏を擁する国家へと発展しました。この過程で、情報と価値をコントロールする文字と貨幣、そして社会を精神的に統合する天命思想や諸子百家の思想が生まれました。これらの革新は、中国文明の基盤を築き、後の秦による統一へとつながる道を開いたのです。
参考文献
NHK「中国文明の謎」取材班「中夏文明の誕生」講談社(2012)
岡村秀典「夏王朝」講談社学術文庫(2007)