初期国家:紀元前3000年頃、不安が中国の初期国家を生み出した

中国史

私たちは、時に過去の歴史を「偉大な王や英雄の物語」として語りがちです。しかし、歴史の大きな転換点は、実はごくありふれた人々の、心に宿る「不安」と、それを何とか克服しようとする「コントロール欲求」の物語でもあります。

紀元前3000年〜紀元前2000年頃、まだ「中国」という概念がなかったこの地に、後の大文明の源流となる社会の萌芽が見られました。それは、農耕がもたらした成功と、その成功が引き起こした新たな「不安」が複雑に絡み合い、初期国家へ向けた社会変革へと結実した時代でした。

この記事では、中国の新石器時代後期に栄えた良渚文化屈家嶺文化石家河文化龍山文化を具体例に挙げながら、なぜこの時代に社会が大きく複雑化し、階層分化と機能分化が進んだのか、その背景にある「不安」と「コントロール欲求」のダイナミクスを紐解いていきます。

農耕と定住がもたらした新たな不安 

人類が農耕と定住生活を始めたことは、飢餓という根源的な不安から人々を解放する画期的な進歩でした。しかし、この成功は同時に、これまで存在しなかった新たな種類の不安を生み出しました。

  • 自然災害への不安: 農業は、洪水や干ばつといった自然の力に大きく依存します。ひとたび大規模な災害が起きれば、飢餓が再来するリスクがあります。
  • 富の略奪と集団間の争いへの不安: 農耕によって生産された余剰食料は、隣接する集団にとって魅力的な略奪の対象となり、武力衝突が発生しました。
  • 人口増加による社会維持の難しさ: 人口が増加するにつれて、資源の分配や人々の争いの解決が困難になり、既存の統治システムでは不安を解消できなくなっていきました。

これらの新たな不安は、人々をより効率的で強固な社会システムへと駆り立てる原動力となりました。

不安の解決策としての「階層分化」と「機能分化」 

増大する不安をコントロールするために、人々は社会構造を根本から変革しました。その結果、「階層分化」と「機能分化」という、後の国家形成に不可欠な二つの特徴が顕著に現れるようになります。

階層分化の誕生

人々が自発的に従う「権威」に加え、集団を強制力で統率する「権力」が明確に分かれていきます。自然災害への不安を解消するために祭祀を司るシャーマンが、そして集団間の争いが激化すると武力に長けた軍事指導者が台頭しました。多くの場合、これら二つの役割は一人の指導者に集中していきました。

これらの指導者は、やがて恒常的な指導者である「」へと発展し、指導者(王・祭司)と生産活動に従事する民衆という明確な階層が誕生しました。この階層構造によって、数千から数万人規模の共同体を効率的に統治できるようになったのです。

機能分化の誕生

大規模な集団と複雑な統治システムを維持するために、社会は機能的に分業されました。その象徴が拠点集落(都市)の誕生と専門職の出現です。政治、経済、宗教、そして防御の中心地として機能する拠点集落が誕生し、強固な城壁は略奪への不安を物理的に解消しました。また、祭祀を専門とする聖職者、都市の防衛を担う戦士、余剰生産物の管理を行う行政官、建築家や陶工などの職人といった、高度な専門知識と技能を持つ人々が現れました。彼らの存在は、社会全体のコントロール能力を飛躍的に向上させ、より大規模な共同体を維持することを可能にしました。

各地の具体例に見る「階層分化」と「機能分化」 

紀元前3000年頃の中国各地では、こうした社会の変化が同時多発的に見られるようになります。

  • 良渚文化(紀元前3300年頃 – 紀元前2300年頃): 長江下流域に栄えた良渚文化は、大規模な水利システムと巨大な拠点集落を建設しました。これは強力な支配者が存在したことを示唆しています。この時期、有力者向けの墳丘墓が登場し始めました。墓からは、玉琮玉璧玉鉞といった精巧な玉器が数多く出土しています。これらの玉器は、祭祀や権力者の威信を示すために用いられ、富と権力が特定の階層に集中していたことを物語っています。
  • 屈家嶺文化~石家河文化(紀元前3000年頃 – 紀元前2000年頃): 長江中流域でも、すでに社会の階層化と機能分化の兆候が見られます。屈家嶺文化では大規模な環濠集落が確認されており、集落間の階層分化や、外敵からの防衛の必要性が高まっていたことを示しています。続く石家河文化では、1辺1,000メートルを超える城址が築かれるとともに、大量の土器や副葬品を埋葬した単独の墓が見つかっており、階層分化が明確になったと考えられています。
  • 龍山文化(紀元前3000年頃 – 紀元前1900年頃): 黄河中下流域に栄えた龍山文化は、強固な城壁を持つ集落が多数見つかっていることが最大の特徴です。城壁と堀で囲まれた集落は、外部からの武力衝突が日常的に起きていたこと、そしてそれを防衛するための強力なリーダーシップが存在したことを物語っています。この文化の土器は、黒く磨き上げられた黒陶が特徴で、卵の殻のように薄く作られた「蛋殻陶(らんかくとう)」と呼ばれる黒陶は、専門の職人がいたことを示唆しています。

【写真】蛋殻陶:最も薄い所は0.2ミリ。(出典:フレンドリー山東(威海李君)HP)

紀元前2000年頃に衰退した文化、そして新たな「不安」 

紀元前2000年頃、4.2kイベントと呼ばれる世界的な気候変動、特に寒冷化が起こります。これにより世界各地の多くの文明が衰退しました。中国でも栄華を誇ったこれらの文化も紀元前2000年頃に急激に衰退します。

【リンク】東京大学地球表層圏変動研究センター

気候の寒冷化は、農耕の安定性を脅かし、食料生産を困難にしました。この「自然の力」という新たな不安は、それまで築き上げてきた複雑な社会システムに大きな打撃を与えました。食料が不足すると、大規模な都市の維持は困難になり、人々は再び散らばることを余儀なくされたと考えられます。

しかし、この困難を乗り越えて新たな文化が、龍山文化の中から誕生します。それが、後の夏王朝につながるとされる二里頭文化です。良渚や龍山といった文化が築き上げた、階層分化、機能分化、そして統治のノウハウは、次の二里頭文化の時代へと引き継がれていきました。

まとめ

紀元前3000年頃の中国では、農耕がもたらした成功が「自然災害」や「富をめぐる争い」といった新たな不安を生み出しました。これらの不安を克服するため、人々は特定の指導者に権威と権力を集中させる階層分化と、専門的な役割を担う人々が生まれる機能分化を推し進めました。紀元前2000年頃の気候変動(4.2kイベント)はこれらの社会に打撃を与えましたが、その統治システムとノウハウは後の夏王朝へと受け継がれていきました。この時代の歴史は、人間の「不安」が、より高度で複雑な社会システムを生み出す原動力となったことを示しています。

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参考文献

宮本一夫「中国の歴史01 神話から歴史へ」講談社(2005)

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