もともと中東には、オスマン帝国やサファヴィー朝という巨大な傘の下で、宗派や部族が緩やかに共存する多層的な秩序が存在していました。そこには厳密な国境線はなく、地域の多様性を包み込む柔軟な余白がありました。
しかし18世紀末から20世紀初頭にかけて、産業革命で軍事的優位を得た西欧列強と、領土拡張を進めるロシア帝国が、中東を経済権益と安全保障の戦略拠点として再定義し、本格的な介入を開始します。その結果、この多層的な社会秩序は解体へと向かいました。
なぜこの安定は破壊されたのか。そして、パレスチナ問題やシリア内戦といった悲劇はどこに起因するのか。今回は、西欧列強による侵食と、その帰結として生まれた「人工国家」について解説します。
オスマン・イランの弱体化と列強の接近
18世紀、オスマン帝国はかつての軍事的優位を失い、内部の腐敗と地方勢力の台頭に苦しんでいました。ヨーロッパ諸国は、この大帝国の衰退を「東方問題」と呼び、いかに領土を分割し、影響力を拡大するかという外交ゲームを開始します。
オスマン帝国の動揺
帝国内部では、エジプト総督ムハンマド・アリーが独自の近代化を進め、宗主国であるオスマン帝国を凌ぐ軍事力を獲得しました。1830年代のエジプト=トルコ戦争で帝国は滅亡の危機に陥りますが、皮肉にもこれを救ったのは列強の介入でした。
イギリスやロシアは自国の権益確保のため、帝国を「生かさず殺さず」存続させ、その代償として経済的・政治的支配権を奪っていきました。かつて西欧を脅かしたオスマン帝国は、こうして自立の力を失い、列強から「瀕死の病人」と呼ばれるようになりました。
イラン(カージャール朝)の疲弊
東のイランでは、サファヴィー朝が滅んだ後の混乱をようやく収めたカージャール朝が、18世紀末に誕生しました。しかし、再統一の喜びも束の間、南のイギリスと北のロシアという二大強国のパワーバランスに翻弄されます。自国の富や権利を切り売りしてでも延命を図らざるを得なかった当時のイランは、まさに「緩衝地帯」としての過酷な宿命を背負わされていたのです。
インドルートとグレートゲーム
19世紀の中東史を動かした最大の動機は、イギリスによる植民地インドの防衛でした。イギリスにとって、当時の中東は豊かな居住地というよりも、植民地インドへ至るための重要な「通路」だったのです。
イギリスによるインドルートの確保
- アデン占領(1839年): 蒸気船の石炭補給拠点として、紅海の出口を確保。
- ペルシャ湾岸地域の保護国化: クウェート、バーレーン、カタールなどのペルシャ湾岸の首長国と保護条約を結び、他国の進出を阻む「盾」とした。
- スエズ運河の支配(1882年):1869年の開通後、エジプトを事実上の保護国とすることで、地中海からインドへ至る最短ルートを掌握した。
イギリス・ロシアによるグレートゲーム
イランにおける英露の角逐は「グレートゲーム」と呼ばれます。ロシアは1828年のトルコマンチャーイ条約によって領土と不平等な通商権を獲得し、イギリスも鉄道敷設権、銀行設立権、タバコ専売権などの利権を強引に掌握しました。
これに対し、1891年のタバコ・ボイコット運動では、イスラーム法学者がタバコ使用を禁じる法解釈を示し、国民が一斉に従うことで利権撤回に成功しました。この経験を背景に、専制政治を打破し近代国家を目指すイラン立憲革命が勃発します。
しかし1907年、英露協商によってイランは両国の勢力圏に分割され、憲法制定と議会開設を勝ち取った民衆の意志は踏みにじられました。この列強介入による革命の挫折が、後のイランにおける西欧への深い不信感を生む要因となりました。
第一次世界大戦と三枚舌外交という罪
1914年に始まった第一次世界大戦は、中東の運命を決定づける悲劇の舞台となりました。オスマン帝国が同盟国側で参戦したことを受け、イギリスは戦争を有利に進めるため、相矛盾する3つの約束を交わしました。これが、今日まで続く紛争の火種となった三枚舌外交です。
- フサイン=マクマホン協定(1915年): 第一次世界大戦中、イギリスがアラブ側の指導者フサイン(メッカの太守)に対し、オスマン帝国への反乱に協力する見返りとして、戦後のパレスチナを含む広大な地域での「アラブ人独立国家」の建設を約束。
- サイクス・ピコ協定(1916年): 第一次世界大戦中、イギリス、フランス、ロシアの間で、オスマン帝国領(中東地域)を戦後に秘密裏に分割することを定めた秘密協定。
- バルフォア宣言(1917年): イギリスが第一次世界大戦を完遂するため、ユダヤ系金融資本家や国際的なユダヤ人社会の支持を取り付けるべく、パレスチナにおけるユダヤ人の「民族的郷土」の建設支援を約束。
戦後、これらの約束が互いに矛盾していたことが露呈しました。アラブ人の独立の夢は事実上反故にされ、中東の地図は英仏の官僚が定規で引いた「直線」によって切り刻まれたのです。
委任統治という名の植民地主義
1920年、旧オスマン領のアラブ地域は、英仏の官僚が定規で引いた「直線」、つまり国際連盟による委任統治という枠組みに押し込められました。「未開の地域の独立を指導する」という建前とは裏腹に、実態は国際社会が承認した新形態の植民地支配でした。
英仏が特定の地域を切望した理由は両国の国益にあり、現地住民の意向は無視されました。
イギリスの戦略:石油と交通路
- イラク(石油の道): 石油資源確保と、インドへの空路・陸路の中継点として重視。本来の指導者ではないハーシム家のファイサルを国王に据えるという、不自然な権力移植を行った。
- パレスチナとヨルダン(スエズの盾): スエズ運河を守るための東の防波堤としてパレスチナを支配。ヨルダンは、イラクとパレスチナを繋ぐ「連絡廊下」として設定された。
フランスの戦略:威信と宗教的利権
- レバノン(キリスト教拠点):フランス(カトリック国)は、自らを「オスマン帝国領内のキリスト教徒の保護者」と位置づけ、伝統的保護対象であるマロン派(カトリック系)の中東における地位確立を図った。そのため、キリスト教徒が多数派となるよう周辺のイスラム教徒居住区を併合し「大レバノン」を創設し、マロン派に大統領職などの政治権力を集中させた。この体制は、後の人口比率の変化により深刻な宗派対立と内戦の火種となった。
- シリア(分断統治): フランスはイギリスとの覇権競争を背景に、レバント地域での影響力維持を重視し、「分断して統治せよ」の手法を採用した。多数派スンニ派によるアラブ・ナショナリズムを警戒し、アラウィー派やドゥルーズ派など少数派を基盤とする自治国家を設け、彼らを軍や行政に登用した。
切り刻まれた三層構造の悲劇
英仏による国境の強制は、数世紀かけて醸成された中東の社会構造を根本から破壊しました。
- 「権威」の寸断: カリフ制が廃止され、イスラームという広域な共通言語が排除された。代わりに、現地の人々にとって全く馴染みのない「世俗主義」と「ナショナリズム」が強制された。
- 「権力」の歪曲: 「調整役」であった権力は、英仏の後押しを受けた特定の宗派や一族が独占する「抑圧装置」へと変貌した。
- 「民衆(部族)」の分断: 季節ごとに移動する遊牧民の経路は国境線で遮断され、一つの経済圏であった都市ネットワークは分断された。
| 統治国 | 地域 | 主な獲得理由 | 現代への影響 |
| イギリス | イラク | 石油、インドへの交通路 | 宗派対立、石油利権の混迷 |
| パレスチナ | スエズ運河の防衛 | パレスチナ問題の根源 | |
| ヨルダン | 拠点間の連絡路 | 王室による安定と脆弱性 | |
| フランス | レバノン | キリスト教徒保護 | 複雑な宗派権力分立と内戦 |
| シリア | 伝統的利権、英への対抗 | 少数派統治による独裁と紛争 |
列強への抵抗と再生の試み
この強制的再編に対し、自らの力でアイデンティティを確立しようとした勢力もありました。
- トルコ:第一次世界大戦後の分割危機に対し、ムスタファ・ケマルは祖国解放戦争で列強を撃退し、スルタン制・カリフ制を廃止するトルコ革命を断行して共和国を樹立した。これにより、イスラーム法統治を否定し、徹底した西欧化・世俗化によって欧米型主権国家への転換を強行した。
- イラン:1925年、リーザー・ハーンがパフレヴィー朝を創始し、国名をペルシアからイランへ変更。イスラーム以前の古代帝国の栄光を国家理念として再構築し、中央集権的近代国家への転換を図った。
- サウジアラビア:列強の策動に依らず、ワッハーブ主義とサウード家の武力を基盤にイブン・サウードが半島を統一。西欧的近代ではなく、イスラームの原点への回帰によって建国を果たした稀有な事例である。
- オマーン:沿岸の世俗権力であるスルタンと、内陸の宗教権威イマームという伝統的二重構造を維持。イギリスの保護下で外圧を回避しつつ、1920年のシーブ条約により内政自治と独自の政治文化を存続させた。
まとめ
中東の近代史とは、地域に根ざした「イスラームと部族の秩序」が、西洋の「国民国家という論理」によって暴力的に上書きされたプロセスでした。
現在、中東で起きている国境紛争、執拗な宗派対立、そして既存の国境を否定する過激主義の台頭。これらは西欧がもたらした帝国の再編から生じています。
秩序とは外部から強制されるものではなく、歴史、宗教、人々の絆から自然に醸成されるべきものです。帝国の再編は、中東社会に欧米列強への深い不信感と、失われた栄光への憧憬という、癒えることのない傷跡を残したのです。
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