中東の現在3:なぜ中東に平和は訪れないのか?

中東史

ニュースを見ていると「中東=戦争」というイメージを抱く人も多いのではないでしょうか?

戦争・紛争・テロ・独裁…中東が抱える混迷を理解するためには、ニュースの断片を追うだけでは不十分で、「イスラーム共同体の崩壊」と「西欧思想の強制流入」という視点から紐解く必要があります。

今回はこれまでの中東の現在の総集編という形で、中東に平和が訪れない理由を「権威」という視点から総括してみます。

カリフ制の廃止とイスラーム共同体の喪失

第一次世界大戦は欧州を疲弊させただけでなく、オスマン帝国の崩壊を招き、中東におけるイスラーム世界の秩序を大きく揺るがしました。その象徴が、1924年のカリフ制廃止です。

  • ウンマ(イスラーム共同体)とカリフ制: かつてオスマン帝国を含む中東には、ウンマという信仰共同体が存在し、預言者の後継者であるカリフを権威として、民族や言語の違いを超えた共通のルールを共有していました。カリフは理念上、全ムスリムの指導者と位置づけられていたため、人々は「どの民族か」以上に「イスラーム共同体の一員であること」を重要な拠り所としていました。
  • ミッレト制:オスマン帝国は、イスラーム教徒以外の住民に対しても寛容な姿勢をとり、「宗教共同体(ミッレト)」を単位として統治しました。人々は帝国への忠誠を前提に、一定の自治を認められ、異なる宗教が併存する多様性が保たれていました。
  • カリフ制の廃止と権威の空白: 第一次世界大戦の敗戦と帝国解体の危機の中、ムスタファ・ケマル(アタテュルク)は西欧流の主権国家として生存する道を選び、1924年にカリフ制を廃止しました。これが「イスラーム世界の守護者」という権威の空白を生みます。この空白が、後のイスラーム主義運動の土壌となり、極端な形としてISILによるカリフ制再興の主張へとつながっていきます。

代替思想(民族主義と国民国家)の流入

カリフ制に代わり、西欧由来の「民族主義」と「国民国家」の概念が中東へ流入します。

  • ウンマから「アラブ民族主義」へ: かつて「信徒は皆平等である」としたウンマの思想に代わり、共通の言語を核とする「民族」という概念が形成されました。これは同じムスリムでありながら「アラブ人」と「トルコ人」を分断する、欧米的な民族観の浸透でもありました。
  • 強制された「国民国家」の枠組み: 同時に、一定の境界内の住民を「国民」として統合しようとする国民国家の枠組みが導入されました。部族が自由に往来していた空間は「シリア人」「イラク人」といった新たなカテゴリーで区切られ、宗派や部族の多様性を一つの国民にまとめようとする試みが、深刻な国内対立の火種となりました。

外圧による主権国家の誕生

第二次世界大戦後、多くの中東諸国は主権国家として独立しましたが、その国境は現地の事情を無視して外部から押し付けられたものでした。

  • サイクス=ピコ協定の呪縛: 現在の中東の国境線の多くは、1916年に英仏が秘密裏に結んだサイクス=ピコ協定の分割構想を起点として形成されました。地形や部族の居住域、宗教分布を無視して引かれた国境は、クルド人のように民族を分断し、対立する宗派を一つの国家に押し込めるなど、構造的矛盾を生み出しました。
  • 王族の配置と冷戦下の「安定装置」:英仏は撤退にあたり、統治安定のため伝統的権威(ハシミテ家等)を国王に据え、冷戦下の西側秩序における「防波堤」および「石油供給源」として利用しました。しかし、この親欧米的な王政のあり方は、民族主義に目覚めた民衆の不満を招く結果となりました。

石油と冷戦:アラブ民族主義の台頭

イスラーム共同体の崩壊と、西欧思想(主権・国民・民族)の流入に加え、石油資源の重要性と冷戦という世界規模の対立が中東諸国を翻弄します。

「中継地」から「石油供給地」へ

  • インド航路の中継地: 1869年のスエズ運河開通により、中東はイギリスにとってインド航路の要衝となりました。
  • 石油供給地への転換: 第一次世界大戦を境に軍艦燃料が石炭から石油へ移行すると、中東の価値は地政学的な「中継地」から、世界経済を動かす戦略資源の「石油供給地」へと変貌しました。中東は、世界経済を左右する戦略地帯として再定義されます。
  • 強まるアメリカの関与: 第二次世界大戦後、世界経済が石油依存を深めるにつれ、「石油を制する=世界を制する」こととなり、アメリカの関与が強まります。特に、ニクソン・ショック以降は「ペトロダラー体制」によって、中東の石油がアメリカの金融覇権を支える柱となりました。

アラブ民族主義と革命の連鎖

1950年代、欧米主導の王政秩序に対し、ナセル率いるアラブ民族主義の波が中東を席巻しました。

  • 民族主義と欧米への反発: 1950年代、欧米主導の王政秩序に対し、ナセル率いるアラブ民族主義が中東を席巻しました。欧米は石油利権を維持するため、オイルマネーの一部を王権に分配し親西側体制の固定化を図りましたが、石油収入の分配が歪み、現地社会に十分還元されにくい構造は強い反発を生みました。これがイランの石油国有化運動やエジプトのスエズ運河国有化を後押しし、中東諸国が自らの資源を主張し始める契機となります。
  • ナセルの台頭と英仏覇権の終焉: 1952年、親英米の王政を打倒しエジプト革命を成し遂げたナセルは、反帝国主義とアラブ民族主義を掲げました。1956年のスエズ危機(第二次中東戦争)において、運河国有化を巡る英仏・イスラエルの侵攻を撤退に追い込んだことは、英仏の覇権終了と冷戦構造への本格的移行を象徴しました。
  • 対立軸の固定化: エジプト革命の成功は1958年のイラク革命などを誘発し、中東は「親米王政国家(サウジアラビア、ヨルダン、湾岸首長国など)」と「親ソ共和制国家(エジプト、シリア、イラクなど)」という、米ソの代理戦争的な対立軸へと固定化されていきました。

共和制国家=軍事独裁の固定化

王政を打倒して誕生した共和国の多くは、民主主義ではなく恒久的な軍事独裁へと変質しました。

  • 権威の喪失と独裁の温存: 伝統的権威(王政)を失った新興国家を統合する手段は軍事力による強制へ収斂し、冷戦下では米ソ双方が民主性よりも「自陣営にとっての安定」を優先して独裁政権を支援しました。独裁者は石油収入や外資を独占し、肥大化した治安機構によって民衆を抑圧しました。
  • イスラーム原理主義の台頭という必然: 政治的自由が奪われた社会で反体制活動の場として残ったのはモスクであり、弾圧が強まるほど反政府運動はイスラーム主義的性格を強めていきます。この構造は2011年の「アラブの春」で独裁者が崩壊した際、市民社会が育っていなかったために深刻な内戦へ転落する最大の要因となりました。

1979年という転換点:アラブ民族主義からイスラーム原理主義へ

1979年は、現代中東を根底から変える「転換点」でした。アラブ世界の中心であったエジプトが路線を180度転換した年(アラブ民族主義の終焉)であると同時に、イラン革命(イスラーム原理主義の台頭)によって最大の親米王権が転覆された年でもあったからです。

エジプトの転向(アラブ民族主義の終焉)

  • エジプトの転向 : ナセル急逝後に登場したサダト大統領は、疲弊した経済を立て直すためソ連依存を断ち切り、アメリカへ接近します。そのためには、米国の最重要同盟国であるイスラエルとの和平交渉に臨む必要がありました。こうして1978年のキャンプ・デービッド合意を経て、1979年にエジプト=イスラエル平和条約が締結され、エジプトはアラブ諸国で初めてイスラエルを国家として承認します。
  • アラブ世界のリーダー争い: これに激怒したアラブ諸国はエジプトをアラブ連盟から追放します。かつて盟主だったエジプトの転向は、アラブ民族主義の終焉を意味しました。さらに最強の軍事力を持つエジプトが戦線離脱したことで、アラブ世界のリーダーシップは空白となり、その穴を埋めるべくサウジアラビア、イラク、革命後のイランが覇権を競う多極化が始まります。

イラン革命の衝撃(イスラーム原理主義の台頭)

シーア派の指導者ホメイニによって親米のイラン王政が倒され、反米色の強いイスラーム共和国が成立しました。これは、欧米由来の民族主義や国民主権といった原理を拒否し、国家の正統性を宗教に求め、イスラーム法学者による統治を掲げるイスラーム原理主義の台頭を意味していました。

イランは王政打倒の「革命の輸出」を掲げました。これに危機感を募らせたのが王政を維持していたサウジアラビアです。サウジアラビアは、自らの宗教的正統性と王政維持を強化しました。

こうして「イラン vs サウジアラビア」という、宗教・宗派の皮を被った地域覇権争いが幕を開けました。

多極化する紛争

それまで中東問題と言えばパレスチナ問題であり、アラブ諸国とイスラエルのみでした。だからこそアラブ・イスラエルの紛争を「中東戦争」と呼んでいました。イラン革命以降、イランVSサウジアラビアという対立軸が増加し、紛争が多極化します。

  • イラン・イラク戦争(1980-88): 革命の波及を恐れたサウジアラビアやアメリカが、当時「世俗主義の壁」であったイラク(フセイン政権)を支援し、イラン封じ込めを図りました。
  • 湾岸戦争(1991): 長期化したイラン・イラク戦争で疲弊したイラクのフセイン政権は、自らが「革命の防波堤」として役割を果たしたことを盾に、クウェートやサウジアラビアへ債務免除を要求しました。拒否された結果、イラクはクウェート侵攻に踏み切り、これを受けてアメリカはサウジアラビアに米軍を駐留させます。しかし、イスラームの二大聖地(メッカとメディナ)を擁する地への「異教徒軍」の駐留は聖戦主義者(アルカイダ等)の強い怒りを招き、ビンラディン率いるアルカイダによる9.11テロへとつながりました。
  • イラク戦争(2003): アメリカは9.11後の対テロ戦争の中で、フセイン政権の大量破壊兵器保有疑惑などを理由に侵攻し、政権を崩壊させました。しかしフセインという天敵を失ったことでイランの影響力はイラクやシリアへ拡大し、「シーア派の三日月」圏が形成されます。これがサウジアラビアとアメリカを脅かし、サウジアラビアとイランの対立を鮮明化させました。
  • 現代の代理戦争: 現代のシリア内戦やイエメン内戦は、民衆の民主化運動を起点としながらも、実態はイランとサウジアラビアが勢力圏を死守するための代理戦争へと変質しています。

まとめ

中東はアジア・アフリカ・ヨーロッパを結ぶ要衝に位置し、様々な思想や文物が交錯する場所です。こうした条件は人類最古の文明を生み出した一方で、多様な民族や宗教が交錯し、対立も繰り返されてきました。

こうした多様性を統合・管理する知恵の一つが、ウンマ(イスラーム共同体)という理念であり、またオスマン帝国におけるミッレト制のような統治制度でした。言い換えれば、共同体ごとの「権威」を一定程度尊重し、併存を可能にする発想です。

しかしその秩序が崩れ、「主権国家」「国民」「民族」といった西欧由来の概念が外部から導入され、制度として定着していく過程で、中東社会の内部に矛盾が噴出しました。さらに石油資源の重要性と冷戦構造が、中東への外部介入を拡大させ、対立を一層複雑にしていきます。

現在の中東は、アラブ諸国とイスラエルの対立を抱えつつも、新たな対立軸として、イランとサウジアラビアの競合も抱えています。そして共通の脅威とみなされるイランに対抗するため、かつての宿敵だったイスラエルとサウジアラビアが接近するという、1979年以前には考えられなかった動きさえ起きています。

中東の歴史は今、欧米主導の「主権国家システム」がもたらした矛盾を抱えつつ、地域固有の力学による激しい再編の時代へと向かっています。そしてその再編を動かす権威の中心には、今なおイスラームが強く存在しているのです。

参考文献

臼杵陽「『中東』の世界史」(2018)作品社

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