中東という地域が抱える混迷を理解するためには、単なるニュースの断片を追うだけでは不十分です。過去100年にわたる「システムの崩壊」と「外部概念の強制流入」のプロセスを紐解く必要があります。そこには、オスマン帝国の多層的な秩序が崩壊し、西欧流の主権国家システムが不完全に接合された結果としての「歪み」が、現在進行形の悲劇として露呈しているのです。
イスラーム統合の喪失:カリフ制の終焉
第一次世界大戦は欧州を疲弊させただけでなく、中東におけるイスラーム世界の伝統的秩序を根底から覆しました。その象徴が、1924年3月3日のトルコ大国民議会によるカリフ制廃止です。これは一国家の制度変更にとどまらず、7世紀のムハンマド死後から続いてきた「イスラーム世界の象徴的統合」が終焉を迎えた歴史的転換点でした。
- 多層的共存システム(ミッレト制): オスマン帝国は、現代的な「国民」ではなく、宗教共同体(ミッレト)を統治単位とする多層的共存システムによって多様な民族・宗教を支配していました。各共同体には、地域差はありつつも一定の自治が認められ、人々は帝国への忠誠の下で宗教的帰属意識を軸に共存していました。
- 主権国家への転換と権威の空白: 敗戦と帝国解体の危機の中、ムスタファ・ケマル(アタテュルク)は西欧化による生存を選び、1922年にスルタン制、1924年にカリフ制を廃止しました。文字改革や太陽暦導入を通じて単一の主権国家としてのトルコ共和国を築きましたが、それは同時に「イスラーム世界の守護者」という中心軸を失わせ、後のムスリム同胞団やISIL(アイシル)による「カリフ制再興」運動を招く権威の空白を生み出しました。
代替思想の流入:民族主義と国民国家
カリフ制という精神的支柱が弱体化するにつれ、西欧由来の「民族主義」と「国民国家」の概念が中東へ流入し、人々のアイデンティティを再定義し始めました。
- ウンマから「アラブ民族主義」へ: かつてイスラーム世界を繋いでいたのは、「信徒は皆平等である」というウンマ(イスラーム共同体)の思想でした。しかし20世紀初頭、西欧の民族主義の影響を受けた知識層を中心に、共通の言語と文化を核とする「アラブ民族」という概念が形成されます。これは宗教を超えた連帯を志向する一方で、ムスリムであっても「アラブ人」と「トルコ人」を分断する、欧米的な民族観の浸透でもありました。
- 強制された「国民国家」の枠組み: 同時に、一定の境界内の住民を均質な「国民」として統合する国民国家の枠組みが導入されました。部族が自由に往来していた広大な空間は、「シリア人」「イラク人」といった新たなカテゴリーによって強制的に区分され、多様な宗派や部族を一括りに統合しようとする試みが、後の深刻な国内対立の火種となりました。
外圧による主権国家の誕生:人工的国境の罪
第二次世界大戦後、多くの中東諸国は主権国家として独立しましたが、その基盤となる「地図」は現地の事情を無視して外部から押し付けられたものでした。
- サイクス=ピコ協定の呪縛: 現在の中東の国境線の多くは、1916年に英仏が秘密裏に結んだサイクス=ピコ協定の分割構想を起点として形成されました。地形や部族の居住域、宗教分布を無視して直線的に引かれた国境は、クルド人のように民族を分断し、あるいは対立関係にある宗派を一つの国家に押し込めるなど、構造的矛盾を生み出しました。
- 王族の配置と冷戦下の「安定装置」: 英仏は撤退に際し、統治の安定のために伝統的権威を持つ部族(ハシミテ家など)を国王として配置しました。これら親米的な王政国家は、冷戦期には共産主義の防波堤として、また石油の安定供給装置として西側秩序に組み込まれました。しかし「自由と民主主義」を掲げるアメリカが封建的な王政を支援し続けるという矛盾は、民衆の不満を蓄積させ、現代の不安定化を招く大きな要因となっています。
欧米に翻弄される中東:石油と冷戦
19世紀から20世紀にかけて、中東の価値は地政学的な「中継地」から、世界経済を動かす戦略資源「石油供給地」へと劇的に変貌しました。この資源の重要性が冷戦という世界規模の対立と結びつき、中東諸国の運命を決定づけることになります。
「中継地」から「石油供給基地」へ
- インド航路の中継地: 1869年のスエズ運河開通により、中東はイギリスにとってインド航路の要衝となりました。
- 石油供給地への転換: 第一次世界大戦を境に、軍艦燃料が石炭から石油へ転換されると、中東は国家の生存を左右する戦略地帯として再定義されます。
- 強まるアメリカの関与: 第二次世界大戦後、資本主義経済が石油依存を深めるにつれ、「石油を制する=世界を制する」を意味するようになりました。アメリカの関与は決定的となり、1970年代のニクソン・ショック以降は「ペトロダラー体制」によって、中東の石油がアメリカの金融覇権を支える柱となりました。
革命の連鎖:アラブ民族主義と米ソ冷戦
1950年代、欧米主導の王政秩序に対し、ナセル率いるアラブ民族主義の波が中東を席巻しました。
- 資源ナショナリズムと欧米への反発: 1950年代、欧米主導の王政秩序に対し、ナセル率いるアラブ民族主義が中東を席巻しました。欧米は石油利権を維持するため、オイルマネーの一部を王権に分配し親西側体制の固定化を図りましたが、石油収入の分配が歪み、現地社会に十分還元されにくい構造は強い反発を生みました。これがイランの石油国有化運動やエジプトのスエズ運河国有化を後押しし、中東諸国が自らの資源を主張し始める契機となります。
- ナセルの台頭と英仏覇権の終焉: 1952年、親英米の王政を打倒しエジプト革命を成し遂げたナセルは、反帝国主義と汎アラブ主義を掲げました。1956年のスエズ危機(第二次中東戦争)において、運河国有化を巡る英仏・イスラエルの侵攻を撤退に追い込んだことは、英仏の覇権終了と冷戦構造への本格的移行を象徴しました。
- 対立軸の固定化: エジプト革命の成功は1958年のイラク革命などを誘発し、中東は「親ソ共和制国家(エジプト、シリア、イラクなど)」と「親米王政国家(サウジアラビア、ヨルダン、湾岸首長国など)」という、米ソの代理戦争的な対立軸へと固定化されていきました。
共和制国家の悲劇:軍事独裁の固定化
王政を打倒して誕生した共和国の多くは、民主主義ではなく恒久的な軍事独裁へと変質しました。
- 権威の喪失と独裁の温存: 伝統的権威(王政)を失った新興国家を統合する手段は軍事力による強制へ収斂し、冷戦下では米ソ双方が民主性よりも「自陣営にとっての安定」を優先して独裁政権を支援しました。独裁者は石油収入や外資を独占し、肥大化した治安機構によって民衆を抑圧しました。
- イスラーム主義の台頭という必然: 政治的自由が奪われた社会で反体制活動の場として残ったのはモスクであり、弾圧が強まるほど反政府運動はイスラーム主義的性格を強めていきます。この構造は2011年の「アラブの春」で独裁者が崩壊した際、市民社会が育っていなかったために深刻な内戦へ転落する最大の要因となりました。
1979年の分岐と現在:多極化する覇権争い
1979年、現代中東を根底から変える「地殻変動」が起こりました。アラブ世界の中心であったエジプトが路線を180度転換した年であると同時に、イラン革命によって最大の親米王権が転覆された年でもあったからです。
汎アラブ主義の旗手エジプトの転向
- ナセルからサダトへ(現実路線への転向) : ナセル急逝後に登場したサダト大統領は、疲弊した経済を立て直すためソ連依存を断ち切り、アメリカへ接近します。そのためには、米国の最重要同盟国であるイスラエルとの和平交渉に踏み込む必要がありました。こうして1978年のキャンプ・デービッド合意を経て、1979年にエジプト=イスラエル平和条約が締結され、エジプトはアラブ諸国で初めてイスラエルを国家として承認します。
- エジプトの離脱とアラブ世界のリーダー争い: これに激怒したアラブ諸国はエジプトをアラブ連盟から追放し、かつて盟主だったエジプトの転向は、世俗的な汎アラブ主義の時代が終焉したことを意味しました。さらに最強の軍事力を持つエジプトが戦線離脱したことで、アラブ世界のリーダーシップは空白となり、その穴を埋めるべくサウジアラビア、イラク、革命後のイランが覇権を競う多極化が始まります。
イラン革命とサウジの冷戦
親米のイラン王政が倒れ、「反米イスラーム共和国」が誕生したことで、イランは王政打倒の「革命の輸出」を掲げました。これに危機感を募らせたのが王政を維持していたサウジアラビアです。サウジアラビアは、自らの正統性を守るためにイスラーム保守主義を強化しました。こうして「イラン vs サウジ」という、宗教・宗派の皮を被った地域覇権争いが幕を開けました。
紛争の連鎖:計算違いの連続
- イラン・イラク戦争(1980-88): 革命の波及を恐れたサウジやアメリカが、当時「世俗主義の壁」であったイラク(フセイン政権)を支援し、イラン封じ込めを図りました。
- 湾岸戦争(1991): 長期化したイラン・イラク戦争で疲弊したイラクのフセイン政権が、自らが「革命の防波堤」として役割を果たしたことを盾に、クウェートやサウジアラビアへ借金帳消しを要求し、拒否された結果としてクウェート侵攻に踏み切ったことから始まりました。
- この侵攻を受けてアメリカはサウジアラビアに米軍を駐留させますが、イスラームの二大聖地(メッカとメディナ)を擁する地への「異教徒軍」の駐留は、聖戦主義者(アルカイダ等)の強い怒りを招きました。これがビンラディン率いるアルカイダによる9.11テロへと繋がります。
- イラク戦争(2003): アメリカが9.11後の対テロ戦争の文脈の中で、フセイン政権による大量破壊兵器保有の疑いなどを理由に侵攻し、政権を崩壊させました。
- しかしフセインという天敵を失ったことで、イランの影響力はイラクやシリアへ拡大し、「シーア派の三日月」圏が形成されます。これがサウジアラビアとアメリカを脅かし、サウジとイランの対立を決定的に鮮明化させました。
- 現代の代理戦争: 現代のシリア内戦やイエメン内戦は、民衆の民主化運動を起点としながらも、実態としてはイランとサウジが勢力圏を死守するための凄惨な代理戦争へと変質しています。
まとめ
現在の中東を動かしているのは、100年前に引かれた権威なき「人工的な国境線」という構造的欠陥と、1979年以降の「イラン・サウジ冷戦」という二重の論理です。かつて石油自給のために中東に固執したアメリカも、シェール革命を経て「足抜け」を模索し始めており、地域の秩序はかつてない不安定期に入っています。
その中で、共通の敵であるイランに対抗するため、かつての宿敵であったイスラエルとサウジアラビアが接近するという、1979年以前の常識では考えられなかった「地殻変動」が起きています。中東の歴史は今、西欧主導の「主権国家システム」がもたらした矛盾を抱えながら、地域自体の力学による新たな、そして激しい再編の時代へと向かっているのです。
