年末は何かと物入りの季節。
忘年会、お歳暮、帰省準備……。加えて、私たちに消費を促す一大イベントがクリスマスであり、その象徴こそがサンタクロースです。
特に親たちにとって、サンタクロースは子どもたちに「夢と希望を与える」という美名のもと、プレゼント購入という無言のプレッシャーを与える存在に他なりません。
しかし、この慣習はいつ、どのようにして私たちの文化に根付いたのでしょうか?そもそも、キリストの降誕祭であるクリスマスと、サンタクロースという老人に何の関係があるのか?いや、それ以前にサンタクロースとは一体何者なのか?
今回は、夢や希望という美しい言葉を一旦脇に置き、自明と思われているサンタクロース像の起源について、その歴史を徹底的に紐解いていきます。
サンタクロースの起源:実在した慈善家「聖ニコラウス」(3〜4世紀)
現代のサンタクロースの物語は、紀元3世紀後半に小アジアで実在した人物、聖ニコラウスから始まります。彼は初期キリスト教時代のミュラ(現トルコ)の司教でした。

【写真】聖ニコラウス(出典:Wikipedia)
誕生と若き日の決意
聖ニコラウスは、3世紀後半、裕福で敬虔なキリスト教徒の家庭に生まれました。両親を疫病で早くに亡くした後、彼は多額の遺産を受け継ぎます。伝承によると、ニコラウスはこれを「貧しい人のために使う」ことを決意したとされています。
慈善と奇跡の伝説:贈り物の原点
聖ニコラウスの慈善活動の中でも、後のサンタクロースの核となる「三姉妹への金貨投げ入れの逸話」の伝説が最も有名です。
- 三姉妹への金貨投げ入れの逸話
貧しさゆえに身売りせねばならなくなった三姉妹を救うため、ニコラウスは夜中に密かに窓から金貨の入った袋を投げ入れました。この金貨が、暖炉に干していた靴下に入ったという伝承が、サンタクロースの「夜の訪問」「靴下」「密かな贈り物」という行動の源流となりました。
この他にも、航海中の嵐を鎮めた伝説から「船乗りの守護聖人」とされたり、冤罪の人々を救った話など、弱者を守る慈悲深い司教としての物語が数多く残されています。
崇敬の拡大
聖ニコラウスは343年頃に亡くなりました。彼の聖遺骨は、11世紀末にイスラム勢力の手から守るため、イタリアの港湾都市バーリへ運ばれたことで、ヨーロッパ全土での崇敬が一層高まりました。
ヨーロッパでの普及:聖ニコラウス祭からクリスマスへ(5〜16世紀)
聖ニコラウスの崇敬は、ヨーロッパへ拡大する過程で、彼の命日である12月6日が聖ニコラウス祭として定着しました。
聖ニコラウス祭=贈り物の日の定着
前述の「三姉妹への金貨投げ入れの逸話」をベースに、聖ニコラウス祭である12月6日に子どもへ贈り物を配る習慣が広くヨーロッパに普及しました。贈り物の風習は、もともとクリスマスとは無関係のイベントだったのです。
宗教改革によるクリスマスの接続
贈り物の日が12月6日から25日へ移行する大きな契機となったのが、16世紀の宗教改革です。
プロテスタント圏ではカトリックの聖人崇敬が批判されたため、マルティン・ルターは聖人崇敬から距離を置く目的で、聖ニコラウスではなく、キリストの降誕(クリスマス)と結びつく「幼子イエス」(クリストキント)を贈り物の担い手として提唱しました。
これにより、特にドイツ語圏のプロテスタント地域で、贈り物の日が従来の12月6日から12月25日へと徐々に移行していきました。

【写真】家を訪問するクリストキント(出典:Wikipedia)
オランダでの「シンタクラース」
オランダでは、聖ニコラウスの伝統が独自に発展し、シンタクラースという独自のキャラクターとして定着しました。彼は赤い司教マントとミトラ(帽子)を身に着け、白馬に乗って現れるのが特徴です。
このオランダの伝統が、後にアメリカへ渡り、現代のサンタクロースの形成に決定的な影響を与えることになります。

【写真】オランダのシンタクラース(出典:Wikipedia)
アメリカにおける変容:世界標準モデルの完成(17〜20世紀)
オランダのシンタクラースの習慣は、17世紀にオランダの入植者によってニューアムステルダム(後のニューヨーク)へ持ち込まれ、「サンタクロース」へと変化しました。
贈り物の日の固定化と社会的背景
オランダの入植地がイギリスの支配下に入りニューヨークとなると、イギリス系プロテスタントの慣習であったキリスト降誕祭(12月25日)に贈り物の習慣を結びつける文化が流入し、贈り物の日が12月25日へと変更される流れが自然に発生します。
さらに19世紀初頭、急速な都市化の中で、社会の道徳的秩序と家庭の絆を強化したいという願望が高まりました。この社会的背景のもと、クリスマスが家族中心で道徳的な祝日として再定義されることになりました。
文学によるイメージの固定化
平和的で家庭的な祝日を再構築するため、以下の文学作品によって、現代につながるサンタクロースのイメージと訪問日が固定化されました。
| 時期 | 著作 | 確立された要素と日付の固定 |
| 1823年 | クレメント・クラーク・ムーアの詩『A Visit from St. Nicholas』 | 贈り物の訪問日がクリスマスの前夜(12月24日の夜)に定着。トナカイとソリ、煙突、そして小柄な妖精(エルフ)のような姿というファンタジー要素が誕生。 |
商業による「赤服のサンタ」完成
文学で固定されたイメージの原型は、商業的な力によって、現代世界に普及している「赤服で陽気なサンタクロース」の姿へと完成されました。
| 時期 | 出来事 | 確立された要素 |
| 1860年代 | 挿絵画家トーマス・ナストが挿絵を連載。 | 恰幅の良い白髭の老人という現代的な姿の原型が誕生。赤い上着に白い毛皮の縁取りが多く描かれ、ビジュアルが統一され始める。住居を北極に設定。 |
| 1931年〜 | コカ・コーラ社が広告制作を依頼。 | サンタの服の色を、コカ・コーラのブランドカラーである「赤と白」に徹底的に統一。この陽気で親しみやすい「赤服のサンタ」がグローバルな広告網を通じて全世界に輸出され、国際的な標準イメージとして決定づけられました。 |
日本への受容:販促用キャラクターとして定着(明治後期〜戦後)
アメリカで誕生した、現代の「世界標準型サンタクロース」のイメージは、明治時代に日本へ流入します。サンタクロースは、贈り物を贈る存在であったため、販促用のキャラクターとして企業が導入しました。
| 時期 | 出来事と定着の要因 |
| 普及期(明治後期〜昭和初期) | アメリカで誕生した現代とほぼ同じサンタクロース像が雑誌・新聞広告等を通じて流入。1900〜1930年代にかけて、三越や大丸などの百貨店がサンタを積極的にクリスマスキャラクターとして採用し、都市部を中心に広く知られる存在となる。 |
| 定着期(戦後〜高度経済成長期) | GHQの駐留でアメリカ文化が浸透し、クリスマス人気が再燃。1950年代後半以降は、百貨店や玩具業界など様々な企業がサンタクロースを販売促進用のキャラクターとして採用。さらにテレビなどの広告媒体により、現在広く知られるサンタクロースのイメージが全国的に普及する。 |
こうして日本では、サンタクロースは、「子どもの夢」や「プレゼント」と結びついた販促用キャラクターとして完全に定着しました。


【左】1909年のサンタクロースの挿絵(杉浦非水「初めてのクリスマス」)
【右】1912年の京都の新聞広告


【左】1909年の新聞広告 トナカイとそりでプレゼントを運ぶサンタクロース
【右】1914年12月号「子供の友」挿絵 現代のサンタクロースと同じイメージ


【左】1924年の少年雑誌の表紙(「ニツポン一」第1巻第3号)
【右】1927年児童雑誌の表紙(「赤い鳥」第19巻第6号)
まとめ
聖ニコラウスの慈善から始まった物語は、宗教改革でクリスマスに接続され、アメリカで家族の祝日が模索される中で子供向けのファンタジーに彩られるようになります。そして最終的には、コカ・コーラなどの企業や、テレビを中心とするマスコミによって販促用キャラクターとして完成しました。
日本社会においては、この「世界標準型」の販促用キャラクターが、「子供の夢」という美名の下、私たちの家庭に年末の新たな消費を促すことに成功した、と言えるのです。
| 質問 | 歴史的な真実 |
| サンタの原型は? | 3〜4世紀に実在した小アジアの司教、聖ニコラウス。 |
| なぜプレゼントを贈る? | 聖ニコラウスの「密かな金貨の贈り物」伝説に由来。 |
| なぜ12月25日? | 宗教改革で聖人祭(12/6)を避ける風潮が広がり、幼子キリストにちなんだキリスト降誕祭(12/25)に贈り物の日が移行したため。 |
| 世界標準の赤服の由来は? | トーマス・ナストの挿絵と、コカ・コーラ広告(1931年〜)による商業的なデザインと強力な普及の結果。 |
| 日本で広まった要因は? | 明治後期以降の各種企業による販売促進用キャラクターとしての採用による。特に戦後、テレビを用いた広告戦略(1950年代後半〜)によって全国的なビジュアル統一と普及が完了した。 |
