帝国1:ユーラシアを制したロシア帝国の誕生

東欧史

人類史は、常に「不安」と、それを「コントロール」しようとする飽くなき欲望の物語です。今回焦点を当てるロシア帝国の誕生も例外ではありません。

東スラヴ人の国家は、13世紀のモンゴル侵攻という未曽有の危機に直面し、その発展は一度中断されたかに見えました。しかし、このモンゴル支配を逆手に取り、頭角を現した都市がありました。それが、モスクワです。

地方公国に過ぎなかったモスクワ大公国は、いかにしてモンゴル支配を跳ね返し、ユーラシアにまたがる巨大な大帝国へと変貌していったのでしょうか。

イヴァン3世による「タタールのくびき」からの巧妙な自立

モスクワが発展した背景には、二つの大きな柱を巧みに利用した戦略的な外交がありました。一つはモンゴルの統治システム、もう一つはビザンツ帝国の権威です。

辺境の地の「忠実な貢納者」として

ルーシ諸公国の中で、モスクワは辺境の地という立場を最大限に利用しました。

モンゴル(ジョチ・ウルス)に対し、最も忠実な貢納者として振る舞うことで信頼を獲得。効率的な徴税システムや軍事動員システムといったモンゴルの統治ノウハウを学びつつ、モンゴルのお墨付きを得てライバル公国を次々と吸収・併合していったのです。

特に、バルト海沿岸のリトアニア大公国との対立において、モンゴル側がモスクワを緩衝地帯・牽制役として優遇したことも、その国力増強を後押ししました。

イヴァン3世の時代(1462年〜1505年)には、ノヴゴロドやトヴェリといった有力公国を併合し、ルーシの統一を大きく進め、強固な経済的・軍事的基盤を確立しました。

モンゴル分裂を好機と捉えた独立

独立への決定的な好機が訪れたのは、15世紀後半です。

貢納先であったジョチ・ウルスが分裂し、大オルダ、クリム・ハン国などが相互に対立する状況となりました。イヴァン3世は、このモンゴル側の内部分裂を逃さず、大オルダと対立していたクリム・ハン国と連携することで、軍事的な優位性を確保しました。

1480年、イヴァン3世は大オルダの貢納要求を拒否。アフマド・ハン率いる大オルダ軍がモスクワに侵攻するも、両軍はウグラ河を挟んで長期に対峙したまま、ついに決定的な戦闘には至らず大オルダ軍は撤退しました(ウグラ河畔の対峙)。

この出来事は、「タタールのくびき」の事実上の終焉を象徴します。モスクワは、約250年ぶりに自らの意志によって運命を「コントロール」できる立場を手に入れたのです。

新たな権威としての「ツァーリ」の誕生

「タタールのくびき」から解放されたモスクワは、次に自らの支配者に普遍的な権威を与える作業に取り掛かります。

「第三のローマ」としての権威継承

モスクワを権威ある中心へと変貌させた決定打は、1453年のビザンツ帝国(東ローマ帝国)の滅亡です。

正教世界の中心であったコンスタンティノープルがオスマン帝国によって陥落すると、モスクワは唯一独立を保った正教国となりました。この歴史的な空白を埋めるべく、「第二のローマ」であったビザンツの権威を引き継ぐ「第三のローマ」という壮大な思想を掲げます。

イヴァン3世は、ビザンツ帝国最後の皇帝の姪ソフィヤと結婚(1472年)。この頃から、自らをローマ皇帝の称号カエサルに由来する「ツァーリ」と称し始めました。これは、モスクワを単なるルーシの中心ではなく、世界的な正教文明の中心としての地位へと押し上げようとする野心的な試みでした。

モンゴル=ハンの権威継承

真に「ツァーリ」の権威を確立したのは、イヴァン3世の孫であるイヴァン4世(雷帝)です。彼は1547年に「全ロシアのツァーリ」として正式に戴冠し、従来のモスクワ大公国を中央集権的な国家体制へと引き上げました。これは、事実上の帝国の成立宣言と言えます。

雷帝はさらに、ツァーリの称号にモンゴル=ハンの後継という、もう一つのユーラシア的な軍事・世俗的権力を融合させようとします。

1575年、雷帝はチンギス=ハンの血を引くモンゴル系の人物をモスクワの玉座に座らせ、自らはその臣下の立場をとるという象徴的な儀式を執り行いました。翌年、改めてツァーリの位に復位することで、ロシアのツァーリがモンゴル=ハンの権威をも正式に継承したことを内外に示したのです。

これにより、モスクワの支配者は、キリスト教正教会の守護者という普遍的な権威と、ユーラシア的な軍事的支配者という世俗的権力を融合させた、独自の存在となったのです。

モスクワ大公国のシベリア進出

この「二重権威の融合」を現実のものとしたのが、イヴァン4世の時代(16世紀後半)に本格化したシベリアへの東方植民です。最初の標的はモンゴル系のシビル・ハン国であり、その征服はツァーリがユーラシアの軍事支配者たる権威を武力で証明する行為でした。さらにシベリアの貴重な毛皮は、強大なツァーリ国家を支える重要な財源となり、国家の「コントロール」範囲を一気に東方へと拡大させ、ユーラシアにまたがる事実上の大帝国が誕生します。

雷帝による強権力の発動:恐怖政治と農奴制

独立と権威を手にしたモスクワでしたが、国内では依然として強大な勢力を持つ貴族(ボヤール)が存在し、最大の不安要因でした。雷帝は、この内部の「不安」を解消し、国家全体を「コントロール」下に置くため、強権的な手段を採用しました。

恐怖政治による中央集権化と領土拡大

雷帝は、有力貴族の権力を制限し、ツァーリによる中央集権体制の確立を推進しました。この体制強化を礎に、彼はジョチ・ウルスの後継国家であるカザン・ハン国とアストラハン・ハン国を征服し、ヴォルガ川流域の支配を確固たるものとしました。

その後、1565年にオプリーチニナ(秘密警察組織)を創設し、反抗的な貴族を徹底的に粛清する恐怖政治を展開することで、中央集権をさらに強固なものとしました。この強大な国家機構を背景に、モスクワ勢力はウラル山脈を越えて進出し、シビル・ハン国の征服を端緒として、広大なシベリアへの東方植民を本格化させるに至りました。

国家財政の「不安」を農奴制で解決

強力な中央集権化と絶え間ない領土拡大は、安定した財政基盤と軍事力の維持という新たな「コントロール欲求」を生み出しました。

そこで、雷帝以降に採用されたのが、民衆に対する究極のコントロールである農奴制(再版農奴制)の強化でした。これによって、ある程度移動の自由が認められていた農民は、完全に土地に縛れる存在となりました。

徴税基盤の安定化:広大な国境防衛と戦争のための莫大な財政支出を賄うため、農民を土地に縛り付け、領主を通じて安定的に税収を確保する必要がありました。人口の流動性を排除することで、国家は確実に財源を把握しようとしたのです。

奉仕貴族の維持:国家に軍事奉仕を義務付けられた奉仕貴族は、領地からの収入で軍備を整えていました。農民が逃亡し、領主が経済的に困窮すれば、国家の軍事力そのものが崩壊します。国家は奉仕貴族の要求に応じ、農民を土地に固定化することで、国家の軍事力という根幹を保証しました。

これらの必要性に基づき、農民の移動制限が始まり、最終的に1649年の「会議法典」によって農民は土地に永久に縛り付けられる農奴として正式に固定化され、再版農奴制が完成しました。

これは、国家が民衆の自由を完全に奪うことと引き換えに、絶対的な中央集権体制を支える経済・軍事の基盤を手に入れた瞬間でした。

ピョートル大帝による「ロシア帝国」の完成

雷帝の死後、名門リューリク朝は断絶。動乱時代を経て、1613年にロマノフ朝が誕生します。ロシアが真の「帝国」として世界史の舞台に登場するのは、この王朝のピョートル大帝の時代です。

西欧化改革の断行

ピョートル大帝(在位1682年 – 1725年)は、当時の西欧列強との軍事・技術の格差に強い危機感を抱き、急進的な西欧化改革を断行しました。

  • 常備軍と海軍の創設: 徴兵制を導入し、大規模で規律の取れた常備軍と強力な海軍を育成。これらは「帝国」がその支配力を維持・拡大するための不可欠な「強制力」となりました。
  • 官僚制度の改革と宗教の国家管理: 能力主義に基づく官僚制度を導入。さらに、教会を国家の管理下に置き、ツァーリの「権力」が「権威」を完全に支配下に置くことで、改革への抵抗を抑え込みました。

ロシア帝国の誕生

ピョートル大帝の改革の集大成は、スウェーデンとの北方戦争の勝利でした。バルト海への出口を獲得したピョートルは、1721年にそれまでのツァーリから西欧の神聖ローマ皇帝やオーストリア皇帝などが用いる、当時の西欧で広く通用する「皇帝」の称号であった「インペラートル」を名乗りました。ここに、ロシア帝国が誕生します。

この「帝国」は、モンゴルの統治システムとビザンツの普遍的権威というユーラシア的な遺産を基盤に、ピョートル大帝の改革によって西欧の技術とシステムを融合させた、まったく新しい「コントロール」の仕組みでした。

しかし、このシステムの根底には、農奴制による「民衆」の抑圧という大きな矛盾が埋め込まれていました。農奴制は帝国の力を支えた最大の柱でしたが、同時にその発展を阻害する最大の矛盾でもあり、やがて「帝国」そのものを揺るがし、新たな「不安」の種を蒔くことになるのです。

まとめ

東スラヴは元々分権的でしたが、モンゴル支配によって中央集権的な要素が加味されました。そこにビザンツの普遍的権威、イヴァン雷帝の恐怖政治、ピョートル大帝の西欧的強制力が加わることで、不安をコントロールし続けるユーラシアの大帝国が完成したと言えるでしょう。

参考文献

宮脇淳子「モンゴルの歴史」刀水書房(2018)

宮脇淳子「ロシアとは何か」扶桑社(2023)

吉田浩「世界史リブレット120 ロシア農奴解放と近代化の試み」山川出版社(2024)

< 前へ 次へ >

タイトルとURLをコピーしました