国家2:タタールのくびきがスラヴ人に与えた影響

東欧史

前回は、キエフ公国(キエフ・ルーシともいう。ルーシとは現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシの共通の歴史的なルーツとなる地域・国家・民族を指す言葉)が、ノルマン人の武力と、ビザンツ帝国(ギリシャ)からもたらされたキリスト教・文字・貨幣という抽象的なソフトウェアによって、東スラヴ初の「国家」へと進化した経緯を解説しました。これらのツールは、部族間の対立が続いていた東スラヴの人々に秩序をもたらし、人々の根源的な「不安」を和らげる基盤となりました。

しかし、キエフ公国が抱えていた構造的な限界こそが、歴史を次の巨大な転換点へと導くことになります。

キエフ公国の内部分裂

キエフ公国は、王を中心に官僚機構を有する強固な中央集権国家ではなく、諸公国の緩やかな連合体(封建国家)という点に特徴がありました。

キエフ公国の最高支配者はヴェリーキー・クニャージ(大公)と呼ばれ、キエフに拠点を置いて名目上の盟主として権力と軍事的優位性を持ち、特にドニエプル川交易路の掌握に重要な役割を果たしていました。しかし、各地の有力な都市や公国を支配するクニャージ(諸公)は高い自立性を維持し、キエフ大公との関係は臣従と対立の間で揺れ動いていました。

さらに、公位継承に明確な長子相続制がなく、一族内での争い、すなわち権力継承の不安定さが内的な分裂を助長しました。こうした緩やかな統治体制のため、12世紀に入るとヴェリーキー・クニャージの権力は再び弱まり、キエフ公国は多くの公国に分裂してしまいます。

さらに、内部分裂を悪化させるように遊牧民の侵入や経済基盤の核となっていたドニエプル川交易路の衰退という経済的な要因が重なります。

  • 遊牧民の侵入: 11世紀後半からトルコ系遊牧民が南部のステップ地帯に侵入し、キエフ公国南部を不安定化させました。
  • 交易路の衰退: 12世紀以降、地中海交易の活発化により、キエフの経済基盤であったドニエプル川交易路の重要性が相対的に低下し、キエフの都は衰退しました。

こうして、キエフ公国は国力を失い、その脆弱な状態が、13世紀のモンゴル侵攻に対する抵抗力を決定的に欠く結果となりました。

モンゴルの衝撃とジョチ・ウルスによる支配

13世紀、チンギス・ハン(ハンとは遊牧民族の君主が名乗る称号)の孫でジョチの子に当たるバトゥ率いるモンゴル騎馬軍団が東欧を席巻し、分裂状態にあったキエフ公国を破壊しました。この衝撃的な出来事は、単なる国家の終焉ではなく、東スラヴの歴史に「タタールのくびき」と呼ばれる約250年間にわたる支配をもたらします。この圧倒的な軍事力を前に、スラヴ人はモンゴルの支配下に組み込まれることになります。

東欧侵攻の経緯と影響

モンゴル帝国は、モンゴル高原東部の遊牧部族であったモンゴル部の部族長チンギス=ハンによって、1206年に建設されました。チンギス=ハンのもとで、モンゴル高原から中国北部、中央アジア、西トルキスタンにおよぶ広大な領域を支配しました。

チンギス=ハンの後を継いだオゴタイ=ハンは、1234年に中国の金を滅ぼし、翌1235年にはモンゴル高原に新都カラコルムを建設しました。また、駅伝制(ジャムチ)の整備や戸口調査などを実施し、モンゴル帝国の基礎を固めました。

モンゴル軍による東欧支配は、1235年に新都カラコルムで行われたクリルタイ(モンゴル語で集会の意味。モンゴル帝国の重要事項を決める会議。)で決定された世界征服計画の一環として決定されたバトゥの西方遠征によって始まりました。主な目的は、ルーシの諸公国を征服することでした。

・ルーシへの侵攻: 1237年頃から侵攻が始まり、北東ルーシの主要都市を攻略しました。1240年にはかつての中心都市であるキエフを陥落させ、ルーシの抵抗を完全に打ち砕きました。

・西欧への進出と撤退: ルーシ制圧後、モンゴル軍はポーランドやハンガリーにまで進出しましたが、1242年にモンゴル帝国二代目のオゴタイ=ハンの訃報が届くと、バトゥは軍を撤退させ、ヴォルガ川下流に拠点を築き、ジョチ・ウルスを自立政権として確立しました。

ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の概要

モンゴル帝国の東欧支配を担ったのは、チンギス・ハンの長男ジョチが創設したジョチ・ウルスキプチャク・ハン国)です。

ジョチ・ウルスは、バトゥが指揮した大規模な西方遠征によって、カザフ草原から南ロシア、東ヨーロッパにまで支配領域を拡大し、ヴォルガ川下流のサライを首都としました。支配層はモンゴル人でしたが、被支配民族であるトルコ系のキプチャク族が多数を占めたため、次第にトルコ化が進みました。さらに14世紀前半のウズベク・ハンの時代にはイスラーム教が国教とされ、イスラーム化も進展しました。

「タタールのくびき」と支配の構造

モンゴルは、ルーシ諸公国を直接統治せず、間接統治という効率的な支配方法を採用しました。この間接統治こそが、後述のとおりモスクワを発展の礎となりました。

モンゴルの支配方法

・ジャルリグによる間接統治:モンゴル帝国のハンは、ジャルリグ(勅令・認可状)を発行することで、地元支配者(ルーシ)の地位と支配権を保証しました。これは、ルーシの伝統的な支配機構を温存させつつ、モンゴルによる宗主権を認めさせ、貢納と服従を義務付けるという、効率的な統治手法でした。

・貢納と服従の強要:支配下のルーシ諸公国には、モンゴルへの莫大な貢納(税)の納付が義務付けられました。また、必要に応じて軍事的支援も求められました。

・ダルガチの設置:主要都市には、モンゴル帝国の監督官であるダルガチ(監視役)が派遣されました。ダルガチは、納税の監視や人口調査などを担当し、間接統治の実効性を高める役割を果たしました。

・軍事的威圧:モンゴル軍は、抵抗する都市への徹底した破壊と虐殺を行うことで、支配体制に対する恐怖と威圧を植え付け、服従を強要する効果的な手段として利用しました。

政治的・社会的影響

モンゴルの侵攻は、キエフ公国の政治・社会に壊滅的な打撃を与え、キエフを中心とした東スラヴ人の統一国家を事実上崩壊させました。しかし、この混沌とした力の空白の時代に、地方の小都市であったモスクワ(モスクワ大公国)が台頭する機会を得ます。

モスクワの支配者たちは、モンゴルへの忠実な貢納者として振る舞いながら、モンゴルの支援を得てライバル公国を巧みに吸収・併合していきました。一説によると、バルト海沿岸の大国であったリトアニアを牽制するため、モンゴル側がモスクワを意図的に優遇したとも言われています。

モンゴルの支配は、結果的にモスクワの中央集権化を促進する、歴史の皮肉な逆説となりました。

モスクワの台頭:二つの遺産を継ぐ者

モスクワ大公国が驚くべき速さで台頭し、後のロシア国家の基盤を築くことができたのは、モンゴルの統治システムと、ビザンツが失った普遍的権威という二つの重要な遺産を巧みに利用したからです。

モンゴル流の統治システムの継承

モンゴルは、広大な領土を効率的に支配するため、徴税システム、駅伝制、戸籍制度といった高度な中央集権的な統治システムを確立しました。モスクワの支配者たちは、このシステムをモンゴルへの貢納を円滑に行うために利用する一方で、これを自らの統治の基盤として内面化していきました。

特に、徴税システムはモスクワの財政基盤を強固なものとし、後の統一国家形成の重要な土台となりました。

ビザンツの普遍的権威の継承

モスクワが単なる地方都市から権威ある中心へと変貌を遂げる上で決定的だったのが、ビザンツ帝国の滅亡でした。1453年、東方正教世界の中心であったコンスタンティノープルがオスマン帝国によって陥落すると、ロシアは唯一独立を保った正教国となりました。

この歴史的な力の空白を埋めるべく、モスクワは「第三のローマ」という思想を掲げます。これは、古代ローマ、ビザンツ帝国に続き、正教世界の中心はモスクワであるという主張です。この思想は、単なる政治的プロパガンダではなく、共通の信仰という普遍的な権威によって、広大な領土に住む多様な人々を精神的に統合する基盤となったのです。

これにより、モスクワは、かつてキエフ公国がビザンツから継承した精神的支柱を、スラヴ世界全体の精神的な中心として再び掲げ、自らの「帝国」としての正当性を確立していきました。

まとめ

モンゴルの軍事力は、キエフ・ルーシを崩壊させましたが、その一方で、モスクワという新たな「国家」に、より効率的な中央集権的統治システムをもたらしました。

さらにビザンツ帝国の滅亡は、モスクワに「第三のローマ」という普遍的権威の継承というスラヴ世界を統一する大義をもたらしました。

モスクワは、モンゴルの軍事力を巧みに利用し、ライバルを排除することで「権力」の基盤を固め、ビザンツの「権威」を受け継ぐことで、人々の「不安」に応える精神的支柱を確立しました。この「権力」と「権威」の確立こそが、東スラヴの歴史を「国家」から「帝国」へと押し上げる決定的な原動力となったのです。

次回は、このモスクワが、いかにしてモンゴルの「タタールのくびき」を振り払い、「ツァーリ」(皇帝)を戴く真の「帝国」へと進化し、広大なユーラシア大陸をコントロール下に置くに至ったのかを解説していきます。

参考文献

宮脇淳子「モンゴルの歴史」刀水書房(2018)

宮脇淳子「ロシアとは何か」扶桑社(2023)

宇山卓栄「いまさら聞けない、ウクライナ人とロシア人の『民族的起源と国家の盛衰』」現代ビジネス

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